図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
返却期限なしの恋
開け放した窓から、五月の柔らかな風が吹いてくる。わたしはカバーをかけていた絵本から顔を上げて、窓の外を振り返った。
校庭では体操着を着た子どもたちが列を作って並んでいる。
「一組先頭の子もっと前、三組さがって――」
どこかのクラスの先生が、マイクを片手に指示している。
「はい、はじめまーす」
先生の声を合図に、音楽が流れた。よく耳にするアイドルの新曲。この時期だけは音楽の時間に習う類の曲じゃない、くだけた流行歌が校庭で何度も流れる。いつの間にか耳に残って、五月が終わるころには無意識に口ずさんでいるのも毎年のことだ。
今年も運動会の季節が来た。
曲に合わせて懸命に踊りだす子どもたちの中に、りゅうき君の姿があった。この一年で背が伸びて、少し頬がシュッとした。だんだん幼児から少年になっていってる。もう「さとしくんシリーズ」は読んでない。
わたしは手に持っていたままの絵本に目を落として、そっと笑う。
子どもの図書室ってふしぎだ。小さなころ夢中になっていたオモチャがすぐそばにあるような、それでいてもう遠くにいってしまったような。あの子たちの過去と今とこれからを繋ぐ本を、少しでも多く届けたいと願う。
それに、大人だって――。
「今年もこの季節が来たなぁ」
声に振り返ると、若草色の扉を背に哲が笑いながら腕を組んでいた。見慣れた青色のジャージ。
わたしはなんだか照れくさくなって、気恥ずかしさをごまかすようにまた校庭に目を向けた。
「また忙しくなるな」
そう言いながら近づいた哲が、わたしを後ろから抱きしめた。
「ちょっと、ここじゃまずいって」
何度も言ってるのに、哲は全然聞いてくれない。身を捩って訴えると、うーんとよくわからない返事をされる。
「じゃ、こっち来て」
窓から離れたところへと腕を引きながら、哲がわたしの手の中にある絵本を見た。驚いたように目を丸くする哲に、おもわず笑ってしまう。
「なんでそれ」
わたしが手に抱いてるのは、貸出用のカバーをかけたばかりの真新しい絵本。
「てつくんとリンゴの木」
淡い赤い字でそう書かれた表紙には、リンゴの木の根元に座る少年の絵。
わたしは少年の顔をそっと親指の腹でなぞる。
ページの下には、小さな文字が印字されている。
文 小林哲(こばやしさとし)
「出版社の人が寄贈してくれたんだよ。作者さんの小学校にぜひって」
一年前のあの日、この図書室で読ませてくれた生まれたばかりの物語。こうやって絵本になるまで一年かかった。
結局、哲が小説を寄稿していた出版社では絵本を扱ってもらえなかった。会社に児童文学の部署がないそうで、だから哲はご両親に頭を下げたそうだ。編集部の人を紹介してほしいと。長い時間ほとんど会話をしなかった両親に頼みごとをするなんて、哲の性格を考えるとものすごく抵抗があったろうな、と思う。
それでも哲は、この絵本を作りたかった。
ご両親に編集者を紹介してもらって、それから打ち合わせを繰り返して。この四月、やっと哲の絵本が生まれた。
「わたしこの本が好きだよ」
哲だけの力じゃない。ご両親や、哲が官能小説家を辞めることを許してくれた出版社の人。たくさんの人たちが助けてくれて、一冊の本になった。そのことが愛しい。
哲が本棚に片方の肩をついて、わたしを腕のなかに抱きしめた。
「それじゃ、その本持って亜沙子の両親に挨拶行くか」
「え?」
悪戯っ子のように哲が笑う。このひとは、いくつになってもきっとこんなふうに、少年みたいな顔で笑うんだろう。ふいにそんなことを思う。
「副業が絵本作家ですの方が、官能小説家です、よりウケが良さそうだろ」
目を丸くするわたしに、ゆったりとした笑みを見せる。
「それにいつか子どもが産まれたときも、読ませてやれるしな」
言葉に含まれてる意味に、声を失う。黙ったまま哲を見上げるわたしに、哲が優しい目を向けた。子どもたちに見せる笑顔によく似ていて、でもそれよりもっと甘い。
「そろそろ、嫁に来いよ」
ピーッ。校庭で高らかに笛の音が鳴る。子どもたちの騒めく声。走り回る音。
わたしは哲の顔をぼうっと見た。相変わらずの穏やかな目。このひとはいつからこんな顔でわたしを見るようになったんだろう。
恋愛は慣れてない。まだまだ知らないことが沢山ある。
今、わたしはまたひとつ恋について知る。嬉しすぎると、ひとは大きな反応ができないんだ。
じわりと浮かんだ涙は、そうなることが予想されていたようにすぐに長い指が払ってくれる。
「なきむし」
そうかもしれない。哲と出会って哲を知って、わたしの涙腺はどんどん弱くなっている。
目の前のひとに思いきり抱きついた。すぐに抱きしめ返されて、この一年でわたしに馴染んだ哲の体温が心地いい。
首に回した腕、片手が持ったままの絵本を哲の肩越しに見つめる。リンゴの木に寄り添うように座るてつ君。
わたしと哲の、恋物語。
きっとこの絵本を、夜寝る前に読むんだろう。その時は隣にこの人がいる。同じベッドに眠って、同じ夢を見れるといい。そんなことをこの先ずっと、繰り返していけたらいい。
「愛してる」
腕を緩めて正面から哲を見つめた。驚いた顔のすぐ後に、嬉しそうに細められた目。このひとを幸せにしたい。わたしがもらった幸せと、同じくらい強く。
「俺も愛してる」
抱き寄せられて、近づく唇を目を閉じて受け止める。
窓の外からは、子どもたちの歓声が聞こえてきた。
――END――
校庭では体操着を着た子どもたちが列を作って並んでいる。
「一組先頭の子もっと前、三組さがって――」
どこかのクラスの先生が、マイクを片手に指示している。
「はい、はじめまーす」
先生の声を合図に、音楽が流れた。よく耳にするアイドルの新曲。この時期だけは音楽の時間に習う類の曲じゃない、くだけた流行歌が校庭で何度も流れる。いつの間にか耳に残って、五月が終わるころには無意識に口ずさんでいるのも毎年のことだ。
今年も運動会の季節が来た。
曲に合わせて懸命に踊りだす子どもたちの中に、りゅうき君の姿があった。この一年で背が伸びて、少し頬がシュッとした。だんだん幼児から少年になっていってる。もう「さとしくんシリーズ」は読んでない。
わたしは手に持っていたままの絵本に目を落として、そっと笑う。
子どもの図書室ってふしぎだ。小さなころ夢中になっていたオモチャがすぐそばにあるような、それでいてもう遠くにいってしまったような。あの子たちの過去と今とこれからを繋ぐ本を、少しでも多く届けたいと願う。
それに、大人だって――。
「今年もこの季節が来たなぁ」
声に振り返ると、若草色の扉を背に哲が笑いながら腕を組んでいた。見慣れた青色のジャージ。
わたしはなんだか照れくさくなって、気恥ずかしさをごまかすようにまた校庭に目を向けた。
「また忙しくなるな」
そう言いながら近づいた哲が、わたしを後ろから抱きしめた。
「ちょっと、ここじゃまずいって」
何度も言ってるのに、哲は全然聞いてくれない。身を捩って訴えると、うーんとよくわからない返事をされる。
「じゃ、こっち来て」
窓から離れたところへと腕を引きながら、哲がわたしの手の中にある絵本を見た。驚いたように目を丸くする哲に、おもわず笑ってしまう。
「なんでそれ」
わたしが手に抱いてるのは、貸出用のカバーをかけたばかりの真新しい絵本。
「てつくんとリンゴの木」
淡い赤い字でそう書かれた表紙には、リンゴの木の根元に座る少年の絵。
わたしは少年の顔をそっと親指の腹でなぞる。
ページの下には、小さな文字が印字されている。
文 小林哲(こばやしさとし)
「出版社の人が寄贈してくれたんだよ。作者さんの小学校にぜひって」
一年前のあの日、この図書室で読ませてくれた生まれたばかりの物語。こうやって絵本になるまで一年かかった。
結局、哲が小説を寄稿していた出版社では絵本を扱ってもらえなかった。会社に児童文学の部署がないそうで、だから哲はご両親に頭を下げたそうだ。編集部の人を紹介してほしいと。長い時間ほとんど会話をしなかった両親に頼みごとをするなんて、哲の性格を考えるとものすごく抵抗があったろうな、と思う。
それでも哲は、この絵本を作りたかった。
ご両親に編集者を紹介してもらって、それから打ち合わせを繰り返して。この四月、やっと哲の絵本が生まれた。
「わたしこの本が好きだよ」
哲だけの力じゃない。ご両親や、哲が官能小説家を辞めることを許してくれた出版社の人。たくさんの人たちが助けてくれて、一冊の本になった。そのことが愛しい。
哲が本棚に片方の肩をついて、わたしを腕のなかに抱きしめた。
「それじゃ、その本持って亜沙子の両親に挨拶行くか」
「え?」
悪戯っ子のように哲が笑う。このひとは、いくつになってもきっとこんなふうに、少年みたいな顔で笑うんだろう。ふいにそんなことを思う。
「副業が絵本作家ですの方が、官能小説家です、よりウケが良さそうだろ」
目を丸くするわたしに、ゆったりとした笑みを見せる。
「それにいつか子どもが産まれたときも、読ませてやれるしな」
言葉に含まれてる意味に、声を失う。黙ったまま哲を見上げるわたしに、哲が優しい目を向けた。子どもたちに見せる笑顔によく似ていて、でもそれよりもっと甘い。
「そろそろ、嫁に来いよ」
ピーッ。校庭で高らかに笛の音が鳴る。子どもたちの騒めく声。走り回る音。
わたしは哲の顔をぼうっと見た。相変わらずの穏やかな目。このひとはいつからこんな顔でわたしを見るようになったんだろう。
恋愛は慣れてない。まだまだ知らないことが沢山ある。
今、わたしはまたひとつ恋について知る。嬉しすぎると、ひとは大きな反応ができないんだ。
じわりと浮かんだ涙は、そうなることが予想されていたようにすぐに長い指が払ってくれる。
「なきむし」
そうかもしれない。哲と出会って哲を知って、わたしの涙腺はどんどん弱くなっている。
目の前のひとに思いきり抱きついた。すぐに抱きしめ返されて、この一年でわたしに馴染んだ哲の体温が心地いい。
首に回した腕、片手が持ったままの絵本を哲の肩越しに見つめる。リンゴの木に寄り添うように座るてつ君。
わたしと哲の、恋物語。
きっとこの絵本を、夜寝る前に読むんだろう。その時は隣にこの人がいる。同じベッドに眠って、同じ夢を見れるといい。そんなことをこの先ずっと、繰り返していけたらいい。
「愛してる」
腕を緩めて正面から哲を見つめた。驚いた顔のすぐ後に、嬉しそうに細められた目。このひとを幸せにしたい。わたしがもらった幸せと、同じくらい強く。
「俺も愛してる」
抱き寄せられて、近づく唇を目を閉じて受け止める。
窓の外からは、子どもたちの歓声が聞こえてきた。
――END――