図書恋ーー返却期限なしの恋ーー
『最終下校時刻になりました。校内に残っている児童はすみやかに教室を出ましょう。くりかえします――』
校内放送が鳴り響く三時半。さっきまでパラパラと本を読んでいた子どもたちも皆家に帰り、反対に一冊の文庫を持った変態教師が現れた。
小林先生が――いや、もう先生などと呼ぶのはよそう。こんなアブナイ男、小林で充分だ――小林がわたしに一冊の文庫本をずずいと、黄門様の印籠のように押し付ける。わたしは表紙を見た途端、ギャッと叫んで後ずさった。
『最終電車は秘め事ゆき』
なんだこのタイトル。文庫本には、「そういう」文庫特有の、やけに艶めいた雰囲気の女性が布面積の少ない服を着て横たわっている絵が描かれていた。
いろんなジャンルの本を読んできたけど、こっち方面には免疫がない。小学校司書になってからは特に、まったくもって必要ない分野の本だったから――。そんなことを思いながらも表紙の絵をじっと見てしまっていたことに気がついて、急いで目をそらす。
「これ、俺が書いたの」
わたしの精神状態をまるっと無視して、小林はサラリとした口調で言った。
ほらここ、と小林は表紙に書かれた作者名を指さす。小林哲、と印字されていた。
「……ほんとなんですか?」
趣味で官能小説を書いてるんです、と言い切られても困るけど、実際に本になってるのを見たところで戸惑うだけだ。できるならさっきのことはなかったことにしてしまいたいし、むこうだってその方が良いはずなのに。
にもかかわらず小林は、念を押すかのように再び図書室にやって来た。
「ほんとだって。だから締め切り前は眠くってさ、ここで仮眠取ってたんだよ」
そう言って臆面もなく笑う。わたしは眉を寄せて、半信半疑で文庫を手に取った。表紙の折り返しに書かれている著者紹介の欄。顔写真はない。生年月日を見ると、わたしより学年は一つ下なことがわかった。しかも誕生日が来てないからまだ二十四歳だ。なによ、年下だったんじゃない。
「小林先生、本嫌いなんですよね?」
はじめて会った時にそう言っていた。そんな人が、たとえどんなジャンルでも――官能小説であったとしても――本を、物語を書くなんて、そんなことするわけがない。もしそうならなんだかそれは、わたしにとって心がザラリとすることなのだ。
そう思って口調も目つきも、自然と鋭いものになってしまう。すると小林はそれまでのにこやかな笑みを消して、ふっと片方の口角だけを上にあげた。
よく浮かべてるエラソウな笑いじゃない。どちらかというと嘲笑に近い、なにか暗いものを含んだ笑みだった。
「だからだよ」
わたしはまたわからない。本が嫌いだから、書いた? どうして?
そもそも、どうして小林はこんなことをわたしに言うんだろう。
「さすがに職場が職場だし、だれにも言うつもりなかったんだけどさ」
疑問に答えるように小林は口を開いて、カウンター近くの椅子にドサリと座る。
「バレちゃったからには、協力してもらいたなぁって思って」
ニヤリとニコリの間くらいの、なんとも言えない、要するに信頼できない笑みを浮かべる。
「大したことじゃないんだ。俺けっこう長いこと彼女もいないし、ここんとこ書くもの全部ね、想像力で補ってきたわけ。でもそろそろさ、リアルな女性像っていうの? そういうのほしいわけ」
相槌も打たずに、張りついていた石をどけられた昆虫のようにじっとする。なにを言われるのか、嫌な予感しかしない。
「村田先生さ、二十六だよな? それなりに経験もしてるだろう? 言える範囲で良いんだ。それをさ、ちょーっと小説のネタにさせてくれたらなって」
「絶対に嫌です」
小林が言い終える前に、かぶせるようにそう答えた。僅かに目を見開いた小林に、冷たい一瞥をくれてやる。
「想像力、けっこうじゃないですか。無から有を生み出すのが小説家のお仕事ですよね? 存分に腕を振るってください」
数時間前からこっち、この男にイライラさせられっぱなしだった。だからおもわず、余計なことまで口を滑ってしまったんだと思う。後から考えれば、だけど。
「まぁそんな、男性本位なしょうもない、か……そういうたぐいの小説に、リアルな女性像なんてそもそも必要ないと思いますけどね」
官能とは口に出せずにごまかす。その途端、小林の目元がピクンと反応した。それまで気もち猫背だった背をすっと伸ばされると、それだけで威圧感が増す。百八十センチ以上はありそうだ、と関係ないことをぼんやりと思う。
「言ってくれるじゃん」
低い声が少しかすれて、こんな場面なのにやたら艶めいて聞こえる。そのことが気に食わない。
「亜沙子さ」
カウンターに両手を突いた小林が、こちらを覗きこむようにぐっと身を乗り出す。獲物に飛びかかる前のクロヒョウのような佇まいに、無意識のうちに一歩後退する。
っていうか亜沙子って。いきなり呼び捨てってどういうこと。
小林は唇をゆっくり開くと、ことさら低く、優しげにさえ聞こえる口調で尋ねた。
「こんな本でそこまで反応しちゃうなんて、もしかして処女?」
衝撃的な質問だった。少女、と聞かれたのか、いや症状? 賞状かも、などと脳が拒否のあまり突拍子もない単語を弾きだして――数秒後、顔が真っ赤になった。
その反応をどう取ったのか、小林がくすりと小さく笑う。唇と目元がちょっと動いた、それだけの仕種に今までなかった色気がぶわりと香る。六年二組の小林先生はお母さま方からも人気が高く――唐突にそんな言葉を思い出す。
「やっぱそうか。おかしいと思ったんだよな。ちょっと顔触っただけで真っ赤になるし」
今みたいに。そう付け足して、楽しそうにクスクス笑う。わたしは馬鹿みたいに突っ立ったまま、なにも言い返せない。
そう。小林の言う通り、わたしはこれまで二十六年間生きてきて、その――アレの経験がない。江戸時代っぽく言うなら生娘。まぁ、そういうことだ。
大学がくっついてる女子高に入学して、そのまま女子大を卒業した。この三月まで赴任していた小学校は、一番若い先生でも父親より三つ年下のオジサン先生だった。そんな環境で、どうやって彼氏とか好きな人を見つけるっていうんだろう。だからわたしが二十六歳と二週間の今この瞬間に生娘――いやさらっと言おう、処女だとしても、なにも変なことじゃない。よね?
そんなことを自問自答している間に、小林は室内の壁に沿って並ぶ本棚を振り返って、顎に手をあてた。
「本の読みすぎで、現実見れなかったクチだろ。運命の出会いとか、信じちゃってたんじゃないの?」
ガン、と頭を殴られたような気がした。なんてこと言うんだ。
「あなたに関係ないでしょ!」
「まぁな」
あっさりと小林は認め、でも、と身を乗り出した。再び襲い掛かる前のクロヒョウのポーズになる。
「亜沙子にすっげー興味湧いた」
はぁ?
声に出なくても、思っていたままの顔をしていたらしい。面白そうにクスッと笑うと、カウンターに突いた両手の片方がわたしの腕をぐっと引っ張った。不意を突かれて、そのまま体が前に倒れこむ。
重たげな前髪の向こうに覗く顔立ちは、間近で見ると驚くほど整っている。
――ちょっとまって、近すぎる――。
ちゅ。
あ、と思う間もなく。唇が重ねられた。
「これから――いろいろとよろしくな、亜沙子先生」
小林が不敵な顔で、ニヤッと笑った。
校内放送が鳴り響く三時半。さっきまでパラパラと本を読んでいた子どもたちも皆家に帰り、反対に一冊の文庫を持った変態教師が現れた。
小林先生が――いや、もう先生などと呼ぶのはよそう。こんなアブナイ男、小林で充分だ――小林がわたしに一冊の文庫本をずずいと、黄門様の印籠のように押し付ける。わたしは表紙を見た途端、ギャッと叫んで後ずさった。
『最終電車は秘め事ゆき』
なんだこのタイトル。文庫本には、「そういう」文庫特有の、やけに艶めいた雰囲気の女性が布面積の少ない服を着て横たわっている絵が描かれていた。
いろんなジャンルの本を読んできたけど、こっち方面には免疫がない。小学校司書になってからは特に、まったくもって必要ない分野の本だったから――。そんなことを思いながらも表紙の絵をじっと見てしまっていたことに気がついて、急いで目をそらす。
「これ、俺が書いたの」
わたしの精神状態をまるっと無視して、小林はサラリとした口調で言った。
ほらここ、と小林は表紙に書かれた作者名を指さす。小林哲、と印字されていた。
「……ほんとなんですか?」
趣味で官能小説を書いてるんです、と言い切られても困るけど、実際に本になってるのを見たところで戸惑うだけだ。できるならさっきのことはなかったことにしてしまいたいし、むこうだってその方が良いはずなのに。
にもかかわらず小林は、念を押すかのように再び図書室にやって来た。
「ほんとだって。だから締め切り前は眠くってさ、ここで仮眠取ってたんだよ」
そう言って臆面もなく笑う。わたしは眉を寄せて、半信半疑で文庫を手に取った。表紙の折り返しに書かれている著者紹介の欄。顔写真はない。生年月日を見ると、わたしより学年は一つ下なことがわかった。しかも誕生日が来てないからまだ二十四歳だ。なによ、年下だったんじゃない。
「小林先生、本嫌いなんですよね?」
はじめて会った時にそう言っていた。そんな人が、たとえどんなジャンルでも――官能小説であったとしても――本を、物語を書くなんて、そんなことするわけがない。もしそうならなんだかそれは、わたしにとって心がザラリとすることなのだ。
そう思って口調も目つきも、自然と鋭いものになってしまう。すると小林はそれまでのにこやかな笑みを消して、ふっと片方の口角だけを上にあげた。
よく浮かべてるエラソウな笑いじゃない。どちらかというと嘲笑に近い、なにか暗いものを含んだ笑みだった。
「だからだよ」
わたしはまたわからない。本が嫌いだから、書いた? どうして?
そもそも、どうして小林はこんなことをわたしに言うんだろう。
「さすがに職場が職場だし、だれにも言うつもりなかったんだけどさ」
疑問に答えるように小林は口を開いて、カウンター近くの椅子にドサリと座る。
「バレちゃったからには、協力してもらいたなぁって思って」
ニヤリとニコリの間くらいの、なんとも言えない、要するに信頼できない笑みを浮かべる。
「大したことじゃないんだ。俺けっこう長いこと彼女もいないし、ここんとこ書くもの全部ね、想像力で補ってきたわけ。でもそろそろさ、リアルな女性像っていうの? そういうのほしいわけ」
相槌も打たずに、張りついていた石をどけられた昆虫のようにじっとする。なにを言われるのか、嫌な予感しかしない。
「村田先生さ、二十六だよな? それなりに経験もしてるだろう? 言える範囲で良いんだ。それをさ、ちょーっと小説のネタにさせてくれたらなって」
「絶対に嫌です」
小林が言い終える前に、かぶせるようにそう答えた。僅かに目を見開いた小林に、冷たい一瞥をくれてやる。
「想像力、けっこうじゃないですか。無から有を生み出すのが小説家のお仕事ですよね? 存分に腕を振るってください」
数時間前からこっち、この男にイライラさせられっぱなしだった。だからおもわず、余計なことまで口を滑ってしまったんだと思う。後から考えれば、だけど。
「まぁそんな、男性本位なしょうもない、か……そういうたぐいの小説に、リアルな女性像なんてそもそも必要ないと思いますけどね」
官能とは口に出せずにごまかす。その途端、小林の目元がピクンと反応した。それまで気もち猫背だった背をすっと伸ばされると、それだけで威圧感が増す。百八十センチ以上はありそうだ、と関係ないことをぼんやりと思う。
「言ってくれるじゃん」
低い声が少しかすれて、こんな場面なのにやたら艶めいて聞こえる。そのことが気に食わない。
「亜沙子さ」
カウンターに両手を突いた小林が、こちらを覗きこむようにぐっと身を乗り出す。獲物に飛びかかる前のクロヒョウのような佇まいに、無意識のうちに一歩後退する。
っていうか亜沙子って。いきなり呼び捨てってどういうこと。
小林は唇をゆっくり開くと、ことさら低く、優しげにさえ聞こえる口調で尋ねた。
「こんな本でそこまで反応しちゃうなんて、もしかして処女?」
衝撃的な質問だった。少女、と聞かれたのか、いや症状? 賞状かも、などと脳が拒否のあまり突拍子もない単語を弾きだして――数秒後、顔が真っ赤になった。
その反応をどう取ったのか、小林がくすりと小さく笑う。唇と目元がちょっと動いた、それだけの仕種に今までなかった色気がぶわりと香る。六年二組の小林先生はお母さま方からも人気が高く――唐突にそんな言葉を思い出す。
「やっぱそうか。おかしいと思ったんだよな。ちょっと顔触っただけで真っ赤になるし」
今みたいに。そう付け足して、楽しそうにクスクス笑う。わたしは馬鹿みたいに突っ立ったまま、なにも言い返せない。
そう。小林の言う通り、わたしはこれまで二十六年間生きてきて、その――アレの経験がない。江戸時代っぽく言うなら生娘。まぁ、そういうことだ。
大学がくっついてる女子高に入学して、そのまま女子大を卒業した。この三月まで赴任していた小学校は、一番若い先生でも父親より三つ年下のオジサン先生だった。そんな環境で、どうやって彼氏とか好きな人を見つけるっていうんだろう。だからわたしが二十六歳と二週間の今この瞬間に生娘――いやさらっと言おう、処女だとしても、なにも変なことじゃない。よね?
そんなことを自問自答している間に、小林は室内の壁に沿って並ぶ本棚を振り返って、顎に手をあてた。
「本の読みすぎで、現実見れなかったクチだろ。運命の出会いとか、信じちゃってたんじゃないの?」
ガン、と頭を殴られたような気がした。なんてこと言うんだ。
「あなたに関係ないでしょ!」
「まぁな」
あっさりと小林は認め、でも、と身を乗り出した。再び襲い掛かる前のクロヒョウのポーズになる。
「亜沙子にすっげー興味湧いた」
はぁ?
声に出なくても、思っていたままの顔をしていたらしい。面白そうにクスッと笑うと、カウンターに突いた両手の片方がわたしの腕をぐっと引っ張った。不意を突かれて、そのまま体が前に倒れこむ。
重たげな前髪の向こうに覗く顔立ちは、間近で見ると驚くほど整っている。
――ちょっとまって、近すぎる――。
ちゅ。
あ、と思う間もなく。唇が重ねられた。
「これから――いろいろとよろしくな、亜沙子先生」
小林が不敵な顔で、ニヤッと笑った。