309.5号室の海
「ね、涼さんもそう思うでしょ?」
千秋くん、やめてくれ。
曇りのない笑顔で、蒼井さんにそんなことを聞かれて、うつむいて耳を塞ぎたい気持ちだ。
穴があったら入りたいと心から思った。
「うん、思う」
「!?!?」
「ほらー!」
ばっと蒼井さんの顔を見ると、いつもと何も変わらない無表情だ。
きっとあれだ。社交辞令ってやつだ。
私のイメージでは、蒼井さんってクールで口数が少なくて、どちらかと言えば冷めたところがあると思っていた。
だからこれは社交辞令だ。そうに違いない。
そう考えたらますます、今すぐここから走り去りたい心境だ。
とっさに手を伸ばしたサングリアに、意味もなく助けてくれと念じてみた。
「あ、あの、私そろそろ帰ります」
「そっか。来てくれてありがとう」
「えー!帰っちゃうの!?」
代金を払って、カバンを手にして立ち上がると、蒼井さんが入り口まで見送りに来てくれた。
ドアを開けてくれた右腕が近くて、それだけで緊張してしまう。
「あの、ありがとうございました!」
「こちらこそありがとう。よかったらまた来てね」
最後にばいばいと手を振ってくれた蒼井さんが、軽く口元を緩ませた。
そのおかげで、帰り道は私の口元が緩みっぱなしだった。