309.5号室の海
「とっ!?」
「はい叫ばない!叫ばないでね!」
思わず大声を出しそうになって、慌てて自分の口を手で塞いだ滝本に、さらに念押しをする。
もう少しで、店内に滝本のよく通る声が響き渡るところだった。
「隣の家のやつって……、お前、また超至近距離な……」
「これがね、なんとも緊張の連続なんですよね」
「だろーな!」
ただし、お互いの生活リズムが完全に逆なのは確かだ。蒼井さんは、朝に帰ってきて昼間は寝ているのだろう。
「え、なに、お互いの家行き来したりしてんの?」
「!?…ゴホッ」
「むせたいのはこっちだから」
滝本が変なこと言ったせいでパスタが変なところに入った。
ゲホゴホと咳をして、水を飲んでどうにか落ち着きを取り戻し、キッと目の前の男を睨みつけた。
「そんなこと!……出来るならしたい!」
「…あー、そういえば、まだ捕まるような段階じゃないとか言ってたな」
挨拶以外の会話をしたのが、この前やっとなのだ。家を行き来だなんて、夢のまた夢だ。そんなことが起きた日にはきっと、季節外れの何かが降るに違いない。
「は?マンションで会ってもこんばんはとかしか言わねえの?ただの”ご近所さん”じゃね?」
「そうなのー!どうにか1歩踏み出したいんだけど」
「んー…」
ロコモコ丼を食べ終えた滝本は、アイスコーヒーをストローでかき混ぜながらなにやら考え込んでいる。