309.5号室の海

***


「ゆりさん!今帰り?お疲れ〜!」


聞こえてきた声にぎょっとして横を見た。鍵をもった右手が、不自然に宙に浮いたままになっている。

今は、仕事から帰ってきて、3階に上がって家の前について、カバンから鍵を取り出したところ。その途端、隣の家のドアがすごい勢いで開いたのだ。


「ち、千秋くん?どうしたの?」

「え?ゆりさんが帰ってきた音が聞こえたから!」


犬かよ!と心の中で突っ込む。
しかし千秋くんの笑顔は、キラキラと効果音がつきそうなほどの輝きを放っている。
犬じゃない。彼はもはやアイドルだ。


「よく蒼井さんの家に行くって言ってたの、本当だったんだね」

「店から近いし。どうしても夜中とか朝に仕事終わるから、帰るの面倒なときは泊まるよ!」

「…もしかして、蒼井さんがわざわざ角部屋に住んでるのって」

「ね、優しいよね。従業員が2人泊まりに来ることだってあるからね〜」


1人暮らしのはずの蒼井さんが、どうして広い角部屋に住んでるのか不思議だったけど、そんな理由だとは。
オーナーとしての責任感とか、やっぱりあるのだろうか。


「ゆりさん、この後は?晩ごはんまだ?よかったら一緒に食べない?」

「し、質問が多いよ。一緒にって、どういうこと……?」


尋ねると、千秋くんはなぜか得意そうに笑った。

< 16 / 83 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop