309.5号室の海

「この前店に来てくれたとき、いつの間にか帰ってたね。いつもは声かけてくれるのに」

「え?あ、あー…」


その日は、カナちゃんと色々と話した日だ。最後のほうは、蒼井さんの魅力を語る会みたいになってしまったけど。

カナちゃんの目が少し赤かったので、蒼井さんと千秋くんに声をかけてそれがバレるのを防ごうと、カナちゃんにお会計をしてもらって静かに帰ったのだ。


「ちょうど帰ろうと思ったときに、お忙しそうだったので」

嘘ではない。
実際、蒼井さんは私が帰るときも女性客に捕まっていた。


「そんなの、気にしないで声かけてくれていいよ。どこ行ったのかと思ってちょっと探した」

「えっ、本当ですか」

嬉しいです、私のこと気にして探してくれたんですか。
心の中でそう付け足す。
私の勘違いだとしても、思うだけなら自由だ。


「しつこく媚び売ってくるような客よりも、星野さんと話してるほうがずっと楽しい」

「………ありがとう、ございます」

一瞬変な期待をしそうになったけれど、よく思い出せ、この人は天然心臓破壊人間だ。深い意味なんかない。何も考えてなんかない。


マンションの入り口を抜け、エントランスを横切ってエレベーターに乗り込む。今日も綺麗な植物が置かれている。
3階について、通路を奥に進んで、ここで別れることに寂しさを覚えていると、私の家の前で蒼井さんも足を止めた。


「……3日後の火曜日、店が定休日なんだけど」

「はい…?」

「それで、いつここに招待してくれるの?」


そのときの蒼井さんの、優しく微笑んだ顔が、この後しばらく頭にこびり付いて離れなくなってしまった。

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