309.5号室の海
「———ということなんですけど……。木佐貫さん、私、緊張のあまり逃げ出したい気持ちなんです」
「バーテンで、隣の家の美男子?うわー、もう青春って歳じゃないのにね。大人の恋ともちょっと違うその甘酸っぱさは一体何なの?」
「命がいくつあっても足りません」
木佐貫さんは、にまにま笑っている。最強に面白いオモチャを手に入れた子供のような顔だ。
「とりあえず、宅飲みしようってことなんで、掃除は昨日までに徹底的にしたんです。お酒は向こうが持ってきてくれるんで私は料理担当で」
「隣の家に、大掃除してる音聞こえてたら恥ずかしいね」
「……死にたくなりますね」
よく考えたら、2人きりなのだ。
千秋くんは今回いない。それが嬉しいような心細いような、落ち着くような落ち着かないような。
「でもさ、そりゃあすっごく緊張するだろうけど、せっかくのチャンスでしょ?楽しまないと損よ。最初で最後の機会かもしれないんだから」
「楽し……めますかね、これ」
「押し倒すぐらいがいいと思うけど?」
「おしたおす、」
そんな馬鹿な。
でも確かに、こんな機会もう2度とないかもしれない。だったら、思い出に残るような幸せな時間になるように頑張るほうがいいに決まってる。
そう思うことで、少しだけ肩の力が抜けた。
「木佐貫さん、私頑張ります」
「よく言った!えらい!……そんじゃ、これ。午前中に頼んだ報告書、誤字脱字多すぎだから直しといて」
「……申し訳ございません」
その後は、仕事に集中することに専念した。