309.5号室の海


午後8時。

ピンポーン、という音がした途端、手が震え出した。
慌てて立ち上がって、ドアに駆け寄って呼吸を整える。
大丈夫、大丈夫。
鍵を開けて、ドアを開けた。


「……こんばんは」

「こっ、こんばんは!」


蒼井さんが、紙袋を持って立っていた。

ロールアップしたジーンズに、Vネックの黒い半袖のTシャツ。部屋着じゃないことに、少しだけ胸が躍った。


「どうぞ、何もないところですけど」

「お邪魔します」


蒼井さんが、あの蒼井さんが自分の家にいる。それだけで、ここが自分の家じゃないみたいに感じる。
心臓がばくばくして、大変なことになってる。一方の蒼井さんは、まったくもっていつも通りだ。


「ごめんね。嫌じゃなかった?男が入るの」

「まっまさか!逆に嬉しいですっ!……あ」


慌てて口を押さえる。が、喋ってしまったものは口には戻ってこない。
気持ちがバレやしないかと、ハラハラしながら蒼井さんを見ると、なぜか難しい顔をしていた。


「……星野さん、もしかして慣れてる?」

「え?慣れてる?」

「おうむ返し?……ま、いいや。これ、星野さんが好きそうなワインとか持ってきた」


差し出された紙袋をのぞくと、ワインボトルが2本と、ウイスキーとミネラルウォーター、炭酸水が入っていた。
私はあまり詳しくないけれど、安物ではないような気がした。


「こんなにいっぱい!ありがとうございます!」

「酒のことしかわからないから、これぐらいはね」


蒼井さんにソファーに座ってもらって、テーブルの上に料理を運ぶ。その間に、蒼井さんはお酒の用意をしてくれた。
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