309.5号室の海
「あ、ハンカチ。あげるって言ったのに」
それはカナちゃんが泣いてたときに渡したものだ。綺麗にアイロンまでかけてある。
「なんか迷惑かけた?あいつ」
「違いますよ。カナちゃん、可愛い子ですよね」
カナちゃんは、蒼井さんのことが好き。だけど私も、蒼井さんのことが好きで。
いくらカナちゃんが可愛くても、それだけは譲れなくて。
カナちゃんは隣に住んでてずるいと言ったけど、私からすれば同じ職場で仲がいいカナちゃんのほうが、羨ましい。
私なんて最近やっと、まともに話せるようになったのに。
「カナは我儘なとこもあるけど男の客からの受けはいい。まあ、接客は千秋とカナに任せれば、勝手にリピーターが増えていくから」
リピーターが多いのは、蒼井さんのせいでもあると思う。それに気付いてないのは、きっと本人ぐらいだ。
それを言ったら、大真面目な顔で「そんなことない」って言うところが想像出来る。
ソファーにもたれてグラスを傾ける姿は、文句なしに見惚れてしまうほどなのに。
「蒼井さんって、彼女、いるんですか?」
「え」
声が震えてないか心配になった。
勇気を出して言った言葉に、蒼井さんが目を見開いた。
「あ、ほら!彼女いたらこの状況、あんまりよくないかな、って」
「……ああ、確かに」
ごまかすように、テーブルの上の料理に手を伸ばす。ベーコンとほうれん草のキッシュは、我ながらいい出来だった。
「いたら、来てない」
ポツリと落とされた言葉に、顔を上げる。すると、蒼井さんの綺麗な目と視線が合った。