309.5号室の海
「ていうか、星野さん明日も仕事だよね?そろそろ隣戻る」
「え、あ、そうですか」
蒼井さんが後ろを向いてる隙に、ほてった顔を手でパタパタとあおぐ。
”帰る”じゃなくて、”戻る”って言った。
その発言にたいした意味はないのかもしれないけど、嬉しくなってしまう。
意図せぬ形で好きだと言ってしまったけど(本気の意味だとは思われてないはず)、蒼井さんは私のこと、どう思ってるか全然聞けなかった。
なんだかモヤモヤした気持ちのまま、玄関先まで一緒に進んだ。
「ありがとう、ご飯美味しかった」
「こちらこそ、お酒美味しかったし、楽しかったです」
なんとか笑顔を作ってそう告げる。
蒼井さんはドアノブに手をかけて、そこでなぜか止まった。
「……俺、今けっこう酔ってる、かもしれない」
「え?」
どういう意味か考える前に、振り返った蒼井さんが私の肩に手を置いた。
そして、おでこにチュッと唇が当たった。
「……おやすみ」
そう言い残して、蒼井さんがドアを開けて出て行った。
目の前で、ゆっくりと閉まっていくドア。微かに残る蒼井さんの香り。おでこに残った、唇の感触………。
「えっ」
しばらく呆然とその場に立ち尽くしたあと、へなへなと力なく座り込んだ。
冷静になって、状況を思い返して、脳みそで処理する。
理解した途端、顔から火が出そうなほど熱が上へ上へとのぼってきた。
これも、何も意味なんてないことなのか。
声にならない声で絶叫しながら、確かめるように自分のおでこに手を当てたのだった。