309.5号室の海
「この嘘つき女。あんま調子乗んなよ」
そんな声が、背後から聞こえた。
振り向くと、給湯室の入り口にもたれかかるようにして、滝本が立っていた。
田中さんは、サーっという音が聞こえてきそうないきおいで顔を青くして、私から一歩距離をとった。
「弁解すんの面倒だし噂も放ったらかしにしてたけど、他の奴巻き込んで迷惑かけるようなら俺も黙っとくわけにいかねーわ」
「迷惑だなんて、そんな私、」
慌てて首を横に振る田中さん。
好きな人には、どうしたって嫌われたくないだろう。涙目になってるようにも見える。
どうしようかと考えて、テーブルの上のコーヒーメーカーを見た。サーバーにはすでに黒い液体が溜まっている。
「ごめん、私コーヒー早く飲みたいんだよ。切り上げていい?」
「あ、じゃあ私、部署に戻りますっ」
「おい、ちょっ……」
田中さんがせかせかと給湯室を出て行った。
私は棚から自分のカップを取り出して、コーヒーを注いだ。少しだけ、砂糖も入れた。
「……お前」
「いいよもう。ありがとうね」
肩透かしをくらったような顔で、滝本がため息をついた。
給湯室に私と田中さんが入っていくのが見えて、もしやと思って来てくれたんだろう。滝本はこう見えて人思いだと知ってる。