309.5号室の海
迎えた金曜日。
残業せずに済むようにと、朝からハイペースで仕事を片付ける私を見て、木佐貫さんが声をかけてきた。
「星野、タイピングはっや」
「誤字脱字には注意してます」
「ふむ」
課長が席を空けてるのを確認して、木佐貫さんが自分のデスクからイスをゴロゴロと引っ張ってきた。
私の隣に腰掛けて、まるで内緒話をするように小声で話しかけてきた。
「滝本と飲みに行くんだって?」
「そうです。あれ、なんで知ってるんですか?」
「あのバカ、朝から浮かれてたから問い詰めてみたのよ」
カタカタカタ。
タイピングの速度を落とさないまま、右耳で話をキャッチする。
「浮かれてた?あの滝本がですか?」
つい笑みを零しながらそう返す。
滝本がウキウキしてる姿って、想像できない。というか、あまり想像したくない。
危ない、漢字の変換を間違えた。また注意されてしまう。
「あら、本当よ。だってあいつ、コピー10枚しようとして間違えて100枚に設定して、17枚目ぐらいで気付いて慌てて止めてたもの」
「ぶはっ」
なんという珍プレー。
滝本らしくないミスに思わず吹き出してしまった。
「すごーく楽しみにしてそうな感じだったわよ?」
カタカタ、カタ……。
あれ、今なにを打とうとしてたんだっけ。
「木佐貫さん」
「なにー?」
「課長、戻ってきましたよ」
「あ、やば」
イスと一緒に、木佐貫さんがデスクへと戻っていった。
ぶんぶんと頭を振って、なにかから逃げるように必死にキーボードを叩き続けた。