309.5号室の海
「でもあれだな、もし振られでもしたらあの話受けるかと思ったけど、その調子じゃ断るのか?」
さっきまでの空気が嘘のように、滝本は真剣な顔をした。
仕事中、大事な話をするときみたいだ。
言われた意味がよくわからなくて、首を傾げた。
「あの話?」
「は?」
「え?」
「あれ?まだ聞いてねえの?」
その瞬間、滝本が「やってしまった」という顔をした。
なんだか嫌な予感がして、持っていたグラスをテーブルに置いた。
「……知らないならいい。近いうち耳に入ると思うし、それまで、」
「なに、言ってよ。誰にも言わないから」
滝本は困ったように視線を彷徨わせた。
出来れば自分の口からは言いたくない、そんな顔だ。
困らせてるのは重々承知だ。だけど、今聞かないとなぜか後悔するような気がしたのだ。
頑として聞き出す姿勢をやめない私に、滝本が折れた。
深いため息をひとつ。それから、顔の前で手を組んだ。
「俺も昨日知ったんだよ。ちょっと仲のいい、人事の先輩から聞かされて」
「人事の……」
背中がすうっと冷たくなるのを感じた。
「転勤の話がきてる。係長の前田さんと、お前に」
嫌な汗をかきそうだ。
滝本の顔を見つめながら、その口から放たれた言葉をもう一度頭の中で繰り返す。
転勤の話がきてる。
きっと来週すぐ、月曜日にでも、私自身聞かされることだろう。