309.5号室の海
「ただ、この転勤は出世コースだ。係長は転勤先で課長に昇任するらしい。お前も、本社に引き抜かれた。女では異例だって」
「本社に?」
遠い。
今のところから本社がある都心まで、新幹線で約2時間。
おそらく、少なくとも3年間は次の異動はないだろう。
いつからだろう。
早ければ来月から、とか。
それまでに仕事の引き継ぎをして、デスクの整理整頓、それから、引っ越しを。
……引っ越し。
あの家を、出て行くのか。
「や、でも断れるはずだ。特に今回は異例のことで、上としても拒否されるかもって思ってるだろうし。お前がやりたいようにすればいいと思うけど?俺は」
「やりたいように?」
「とりあえず、ゆっくり考えろよ」
滝本はそう言うと、自分の分と私の分、ドリンクを頼み直した。
ただ、そのあとの会話はあまり覚えていない。話しててもどこか上の空だったように思う。
滝本はきっとそんな私に気付いていたけど、なにも言わずに相手をしてくれた。
「ありがとう〜!また来てね!」
あまり遅くなる前に、千秋くんに見送られて、店を後にした。
帰り際、蒼井さんと目が合ったような気がした。だけど、すぐに意図的にそらされたような気がして、それがまた胸の中のもやもやを大きくさせた。
「本当に送って行かなくていいか?」
「大丈夫。家、すぐそこだから!じゃあまた月曜日、会社でね」
そんなやりとりをして、1人マンションまで帰ってきた。
頭の中を占めているのは、さっきからずっとただ1つだ。
やりきれない。そんな気持ちでエレベーターのボタンを押した。
横に置かれた植物は、少し元気がないように見えた。