309.5号室の海
蒼井さんと家の前でばったり遭遇したのは、次の日の土曜日だった。
「こ、こんにちは」
「……こんにちは」
仕事が休みだったので、昼近くまでぐっすり寝ていて、気分転換でもしようと外に出たところだった。
忘れていた。蒼井さんはこのぐらいの時間にいつもコンビニに行くんだった。
「昨日、来てくれてありがとう」
「い、いえ、こちらこそ……」
思えば、蒼井さんとはあの”でこチュー事件”(勝手に名付けた)以来、まともに話していない。
昨日お店に行ったときはそれどころじゃなかったし。
今更恥ずかしくなってきて、俯いて自分の靴を意味もなく見た。
蒼井さんは、気まずいとか思ってないんだろうか。
「……彼氏、できた?」
「はっ?」
聞こえてきた声にがばっと顔を上げると、笑いもせず、怒りもせず、感情のないような顔の蒼井さんと目が合った。
すこし、怖いと思った。
「昨日の。いい雰囲気だったね。邪魔したら悪いと思って、話しかけられなかった」
「ち、違います」
そんなにいい雰囲気だっただろうか?
蒼井さんの目には、そんな風に映ったのだろうか?
蒼井さんには、蒼井さんにだけは、そんな風に言ってほしくなかった。
「もう、家とかも行き来するのよくないよね。気をつける」
そう言った蒼井さんが、ひらひらと手を振って離れて行こうとする。
私は下唇を噛んで、とっさに蒼井さんの手を掴んだ。