309.5号室の海
今、なにも言わなかったら、きっともっと誤解を生む。上手く先へ進めなくなる。
たとえば、この309号室と310号室の間には、ものすごく広大な海があるとして。
今まではその中を、意志を持ってまっすぐ泳いで進めていたのに。
ちょっとしたことで、なんだかすごく暗く深く感じてしまって、指針を無くしてどこへ行けばいいのか、どうやって泳ぐのかわからなくなって。
もがけばもがくほど、溺れてしまうんだ。
「彼氏じゃ、ありません。あの人は会社の同期です。それだけです」
「……星野さん」
「本当です。だから、邪魔だなんて、言わないでください……」
消え入りそうな、絞り出した声でなんとか誤解をとく。
突き放さないで。
離れていかないで。
せっかく近付いたこの距離を、振り出しに戻さないで。
すると、掴んでいた手を、逆に掴まれて、握られた。
「……ごめん」
「え、」
ふいっと、そっぽを向いてしまう蒼井さん。
「かっこわる、俺。でもごめん、ちょっと今顔見ないで」
「どうしたんです、か」
見ないでと言われれば、見たくなるのが人間だ。蒼井さんの耳が、ちょっとだけ赤くなってる。
かっこわるいだなんて。蒼井さんはいつだってかっこいいのに。
「……よかった。俺の、勘違い」
安心したような声色で、聞こえてきた言葉。
私、もしかしてちょっとぐらい、期待してもいいのだろうか。家と家の距離よりもっと、近い存在になること。
ようやくこっちを見てくれた蒼井さんと笑い合いながら、だけどどうしても、ここを出て行くかもしれないことは、言えなかった。