309.5号室の海
蒼井さんに、千秋くんは密かに憧れていた。話したことはないものの、姿を見かけるたびに近寄るチャンスを伺っていた。
そんなとき、他校の生徒に喧嘩を売られて、千秋くんはちょっとした騒ぎを起こしてしまう。初めてのことではなかった。
親にも、学校にも見放され、一匹狼のようにフラフラした生活だった。もう明日なんて来なくていい、どうでもいい。
家に帰らず、夜中に知らない店の裏で座り込んでいたら、上から透き通るような声がしたのだという。
「そこの犬、拾ってやろうか?」
———
「……え?ちょっと待って、その言葉嬉しかったの?」
「嬉しかったよ〜!もう、あの蒼井涼に話しかけられた!って感じで、感動した!」
「あ、そう…」
忠犬、そんな言葉が頭をよぎる。
黄金の毛並みを風になびかせて、野原を駆ける様子が頭に浮かんで、慌てて追い払った。
「たまたま、おれが座り込んだとこの店が、当時涼さんが働いてたバーだったんだよ!そのときから、独立したいって思ってたみたい」
「じゃあ、今は夢が叶ったんだ」
お店での蒼井さんは、普段と同じようにあまり表情が豊かではない。それこそ本当に、千秋くんとは正反対だ。まあそれも、本人達が気付いていないだけで今ではあのお店の売りみたいになっているのだけど。
だから、どんな気持ちであのカウンター内に立っているかなんてことは、私は何も知らない。