309.5号室の海

「そーいう、負の感情っていうか、まあそういうの。全部ぜんぶ隠しちゃうんだよ。あの人から無表情を取り去ったら、ダメになるよ、きっとね」


千秋くんは、無表情の裏に隠しているものを、ひとつひとつよく知っているのだろうか。


「だから、おれは一緒に店にいるのがちょうどいいんだ。涼さんがいくら無表情でも、おれがいつも笑ってるから。ちょうどいいんだ」


そう言ってニカッと笑った千秋くんは、今まで見たどの笑顔よりもキラキラとしていた。アイドルのようではない、ありのままの笑顔だと思った。


「だけど、それは店にいるときの話。店に立ってないときの涼さんには、おれなんかより必要な人がいるよ?」

「必要な人?」

「うん、だからね」


いきなり、「あれ?」っと思う間もなく、千秋くんが距離を詰めてきた。
それは、とてもじゃないけど”友達”や”知り合い”の距離感ではなかった。
鼻先が触れそうなほど千秋くんの顔が目の前にある。


「え、あの」

「こんな風に、こんな時間に、誰でも家にあげたらダメだよ?」


聞いたことがないぐらいの、低い声。
片方だけ上げられた口角が、妙に色っぽい。

呆気に取られている間に、パッと千秋くんは離れていった。


「じゃあ、そろそろ行くね!おれの話、聞いてくれてありがとー!」

「え、あ、え、うん」


ばいばいー!
元気な声と共に、玄関のドアが開かれて、すぐに閉まった。


「……びっくりした」


今日は、色んな千秋くんを見てしまった気がする。
犬っぽいなと思っていたのに、実はカメレオンだったのだろうか。

その疑問に答えてくれることも、きっと無いのだろう。


テーブルの上の冷めたコーヒーを見ながら、蒼井さんと千秋くんが並んで立つ姿を思い浮かべた。
それは、これからも変わらずに在り続けてほしい光景だった。

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