309.5号室の海
「星野!」
役員室を後にして、廊下を歩いていると、後ろから呼ばれた。
「滝本」
「おら」
「わっ、なに?」
滝本の手から何かが投げられる。
運良くキャッチすると、缶コーヒーだった。落としたらどうするつもりだったんだろう。
「ありがと」
高揚した気分の今、冷たい缶が気持ちいい。少しの間顔に当ててから、プルタブを開けた。
滝本は、そわそわしたように私の様子を伺ってくる。それが面白くて、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
「なによ」
「……決めたのか?」
役員室から出た途端に聞いてくるなんて、どれだけ気にしてくれてたんだろう。
相変わらず、頼りになる。
「……気になる?」
「そりゃ、な。俺の仕事にも関係してくるし、お前は、その、ずっと一緒に仕事してきた同期だしな」
「……ふふっ」
止めていた足を再び動かせば、後ろからついてくる足音が聞こえる。
形容し難い気分だった。
嵐の前の静けさのような、落ち着いているのにざわざわするような。
「おいコラ、言わねえ気かよ」
「あ、そうだ。次はいつ飲みに行こっか?」
「はあ?んな話は今じゃなくて、も……」
イライラしたように怒った顔が、ハッとした表情へと変わる。
それから、形のいい眉がぐっと寄せられた。
その顔を見届けてから、缶に残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「来月中に行かないと、しばらく行けなくなっちゃうからね」
ゴミ箱までの距離は2、3メートル。
弧を描いた空き缶は、見事にその中へと収まった。