309.5号室の海


転勤まで、残り1ヶ月を切った。

無事に向こうで住むところを決めて、引っ越し業者へ連絡、見積もりを出してもらって、あとは今月末の引っ越し当日までに荷造りを進めていく。順調だった。

そしてこの日、蒼井さんのバーに行くことにした。
いつもはあまり計画せずに、仕事帰りの思い付きでフラフラと立ち寄ることが多いのだけど、今回は違った。特別だった。
もう、あのお店に行くのは最後にしようと決めていたから。


「……あ、星野さん。こんばんは」

「こんばんは!お邪魔します」


カウンターの1番奥に腰掛けて、ほっと息を吐き出した。
テーブル席でお客さんと話している千秋くんがいる。カナちゃんの姿は見えなかった。


「いつもの?」

「あ、いえ今日は、変えてみます。……ギムレット。ギムレットがいいです」


そう言うと、蒼井さんは少し目を見開いて、それから眉をひそめた。


「なんで?」

「え、そういう気分なだけですよ」

「……そう」


カクテルを作っている間、蒼井さんは私の前に立って話しかけてくれた。


「最近は、忙しい?」

「んー、ちょっとだけ。蒼井さんこそ、お店いつも流行ってますよね」

「そうかな。でも好きなことしてるから大変だとは思わないし、充実してるかも」


無表情の中に、少し照れたような色が混じった気がした。
楽しいんだろうなと、簡単に想像がつく。

どうぞ、と目の前に置かれたカクテルグラスは、間接照明の優しい光を受けてテーブルに影を作っている。
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