309.5号室の海
「幸せそうな顔してますよ、今の蒼井さん」
笑いながらそう言うと、蒼井さんは口元に手を当てて、ふいっと顔を背けた。
どうしたのかと思っていると、ボソッと小さな声でこう言われた。
「それは、今目の前に星野さんがいるからだと思うんだけど」
「…………」
「……黙られたら、余計に恥ずかしいから。なんか喋って」
「そっ……、」
そんな無茶な!
つられるように、口元に手を当ててしまう。
今なら死ねる。犯人は蒼井さん、死因は”甘い一言”。
「……俺をどうしたいの、星野さんは」
「それ、完全に私のセリフですよね……」
「なんでどこが」
「そういうところが……」
顔から湯気が出てるかもしれない。
適温を保ってあるこの店内で、1人だけまるでサウナにいるみたいだ。下手するとのぼせる。
ギムレットで喉を冷やすと、飲み慣れない爽やかな風味が抜けていった。
痛いほど思い知らされる。
自分がどれだけ、この人に惹かれてるのか。
蒼井さんの一挙手一投足に、どれだけ振り回されてるのか。
初めて、玄関先であったときからもう、カチッと音がするように歯車が噛み合わさって、ゆっくり回り出していた。
動かすのは簡単でも、止めるのは大変だ。
今ではもう、止め方もわからない。
1度噛み合わさってしまったものを外すときには、どんな音がするのだろう。