309.5号室の海

グラスを空けてから、しばらくぼーっと席に座ったままでいた。
帰りたくない、でも早く帰ってしまったほうが。

迷いながらも席を立てずにいると、空のグラスと入れ替えるように別のカクテルが置かれた。


「それ、サービスだから」


はっとして顔を上げると、蒼井さんはもう背中を向けて離れていってしまうところだった。

そのカクテルは、オレンジ色から透明へ、綺麗に色を変えていた。
甘いような、スッキリするような香りがする。
ひとくち飲んでみると、好みの味だった。

だけど、急にどうしたんだろう。
いつもの蒼井さんなら、希望を聞かずにお酒を出すことはしない。
おまかせと言われても、何色が好きかとか、今どんな気分かとかを聞いてるのを見たことがある。

マドラーをくるくるといじっていると、千秋くんが近寄ってきた。


「ゆりさん!元気〜?」

「千秋くん。今日も人気者だね」

「えへへ。……あれ、珍しいの飲んでるね」


千秋くんは私の前に置かれたグラスを見た。
なんていう名前のカクテルなのか、教えてほしい。


「これ、なんだろう。アプリコット?炭酸で割ってあるのかな」

「えーと、たぶんアプリコットフィズじゃないかな。ゆりさんが頼んだんじゃないの?」

「ううん、蒼井さんがサービスだって」


千秋くんが、一瞬すごく驚いた顔をした。それから、クスッと笑って私の隣にしゃがみ込んだ。


「振り向いてよ、って」

「え?なに?」

「……ううん、おれの口から言うことじゃないや。ちゃんと残さずに飲んで帰ってね〜!」


意味深な言葉と笑顔を残して、千秋くんは手を振っていってしまった。

なんだろう。なんか気になる。


言われたとおりに、ひとくちずつ大事に飲み干した。
今までの、このお店での思い出を、ひとつひとつ刻みつけるように。


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