309.5号室の海
ドアを開けると、部屋着姿の蒼井さんが立っていた。
「ごめん、急に」
「いえ、どうしたんですか?」
冷静を装って、自然な声と表情でそう返した、つもりだ。
本当は、今すぐ逃げ出したいぐらい緊張してる。
「最近、見かけないと思って。なにかあった?……」
「あー、ちょっと忙しくて。お店にも行けてなかったから久しぶりかも……」
ハッとして言葉を止めた。
蒼井さんが、家の中を見て驚いた顔をしてることに気付いたから。
もっと、奥の方に置いておけばよかった。
廊下に、積み重なったダンボール箱が置いてある。
蒼井さんは口を開けたまま、しばらく何も言わなかった。
何か言いたいのに出てこない、そんな風にも見える。
なぜか急に、泣きたい気持ちになった。
何も言わずに出て行こうかと思ったときさえあったのに、こうなってしまえば、どうしてもっと早く言わなかったのかと、自分を責めた。
蒼井さんの、驚きと困惑が入り混じったような表情を見てしまったから。
そんな顔をさせるつもりじゃなかった。
「……星野さん、引っ越すの?」
少し掠れた声で、そう尋ねられた。
とっさに言葉が出なかった。
だけど、否定しないだけでもう、質問の答えには充分だった。
「……いつ?」
顔を見れない。
いつも無表情な蒼井さんが、今はそうじゃない気がして。
「つぎの、すいようび、です」
「……ふうん」