309.5号室の海
「あ、あの、転勤することになりまして」
「そうなんだ」
「本社に、都心の方に。短かったら、1年。それで、引っ越しの準備を」
今度は、まるで何かを言い訳するみたいに、自分の口から次々と言葉が溢れ出してくる。
沈黙にならないように、必死になってるみたいだ。
「先月に決まったばっかりで、私もすごいびっくりして」
「……あのさ」
「新しい家も、ここよりは狭いけどなかなか良いところなんです。マンションなんですけど」
「星野さん」
腕を掴まれた。
蒼井さんは、初めて会ったときみたいに、私の目をまっすぐに見ていた。
まるで射抜かれたみたいに動けなくなって、掴まれたところだけがジリジリと熱い。
そのまま、蒼井さんは玄関へ足を踏み入れて、後ろ手にドアを閉めた。
しんとした部屋の中、自分の心臓の音がやけに大きい。
すぐ近くにある蒼井さんの心臓は、どんな音を立てているんだろうか。
「言わないつもりだった?俺には」
ダンボールだらけの部屋に蒼井さんの声が響く。
普段から落ち着いた声色は、自分の気持ちがざわついているせいかより一層落ち着いて聞こえた。
「その程度だった?俺との関係って。ただの隣の人?ただの店員と客?」
「ちがっ、」
「じゃあなんで?なんで言ってくれなかったの」
掴まれているところに、更に力が込められた。逃がさないと言われてるようだ。
「……はなれ、たくなくて」
「……」