309.5号室の海
エレベーターを待つ余裕がなくて、階段を駆け上がった。
たどり着いた家の前、カバンの中をあさる手がせわしなくて、なかなか鍵を取り出せない。
やっと見つけた鍵でドアを開け部屋に入ると、全身の力が抜けてその場にしゃがみ込んでしまった。
"お疲れ様"
"ごめんね"
そんな言葉でさえ、今の私にとってはものすごい破壊力なのだと知った。
あのまっすぐな目、落ち着いた声。あまり表情は変えないけれど目が合えば交わしてくれる言葉。
その一つ一つに、いつの間にかすっかり虜になっていた。
「……好き、」
声に出してみると、余計にドキドキした。
「好き、なんだ……」
ただのお隣さんでは、いたくない。
海中をゆらゆら漂うような気持ちが、はっきりと意思を持って泳ぎ出す。
ドアにもたれるようにして、玄関でしゃがみこんだまま、速くなった鼓動を抑えようと目を閉じて深呼吸した。
ようやく靴を脱ぐ気になったのは、それから15分ほどたってからだった。