309.5号室の海
「言ってしまうと、はなれたくない気持ちが、今よりどんどん大きくなって、しまう気がして……」
目頭が熱くなってきた。
震えそうになる声を、握りこんだ手に力を入れてどうにか抑える。
「でも、今気付きました。もっと早く、言えばよかったって。そしたら出発する日まで、もっとたくさん、蒼井さんと話せたかもしれない。もっとたくさん、会えたかもしれない」
「え」
「わ、私、蒼井さんのこと……っ!?」
突然、蒼井さんの手で口を塞がれた。
まるで、それ以上喋るなというように。
驚いて、頭が真っ白になった。
蒼井さんは、眉間にしわを寄せて目を閉じた。
「言わなくていいよ、それ以上」
そう言って、蒼井さんの手が口から離れていった。掴まれていた腕も、解放された。
再び口を開く間もなく、ドアが開けられて。
蒼井さんは、静かに私の家から出て行った。
閉まるドアを見つめながら、その場から一歩も動けなかった。
後ろ姿に、何も声をかけられなかった。
勇気を出して伝えようとした気持ちを、言わせてさえ、もらえなかった。
呆れられた?見放された?
いいよ、って、もうどうでもいいってこと?
蒼井さんが、今まで見せてくれた笑顔とか優しさ、仕草に、きっと私は、完全に舞い上がってた。
浮かれてた。
自惚れてた。
何も言わずに出て行った、きっとそれが答えなのだろう。
いよいよ涙腺が限界のようで、涙がポタポタと溢れた。