309.5号室の海
すると、ガチャッと少し乱暴に、ドアが開いた。
慌てて涙を拭うと、入ってきたのは出て行ったはずの蒼井さん。
さっきより、少しだけ髪の毛が乱れているような気がする。
「……ああもう、千秋のやつ、いつもと違うとこに置くなってあれほど…」
びっくりして固まってる私に構わず、蒼井さんは文句を言い始めた。
こっちを見た蒼井さんが、私の目尻に溜まった涙を親指で拭ってくれた。
訳がわからずあたふたする私の顔の前に、何かが揺れている。
チャリチャリと音を立てて、蒼井さんの指に引っかかっているそれは。
「……あげる」
「え?これって」
「合鍵。俺の家の。今になって角部屋選んどいてよかったって、すごく思う」
蒼井さんはそう言って、とても綺麗に笑った。
私が1番大好きな、表情だった。
「1年でも、3年とかそれ以上でも、辛くなったらもっと短くてもいいから」
私の手の中に収まった鍵は、ひんやりと冷たかった。
「頑張ったら帰ってきなよ。ここの、隣の家に」
「……!」
「俺は、ずっと俺の家で、待ってるから」
ねえ、蒼井さん。
それって、私が引っ越しても、このマンションの3階に、私が帰ってくる家があるってことかな。
「先になんて言わせない。俺が言うから」
そっと頬に手を当てられて、1歩、距離が縮まった。
1度収まったはずの涙が、また溢れてくるのを感じた。
「好きだよ。帰ってきたら、同じところに住んでくれる?」
瞳から溢れた雫が、頬におかれた手のひらに落ちていった。