309.5号室の海


***


駅のホームに、大きな荷物を持って立つ。
新幹線が来るまであと20分ほど時間があった。


「忘れ物ない?」

「はい、家の中もう空っぽなんで。全部宅配であっちに送ってるんです」


蒼井さんが、見送りに来てくれた。
まだ朝なのに、お店の営業が終わってから寝ずに来てくれたのだという。


「帰ったらしっかり寝てくださいね?」

「どうだろ、寂しくて寝れないかも」


本気か冗談かわからないような口調で、そんなことを言われる。
未だに、この綺麗な横顔には慣れることが出来ない。

ホームには、旅行に行くらしき大学生や、出張へ向かうサラリーマンがいる。
私のように、今から恋人と離れ離れになる人が、他にいるかもしれない。
そしてそれは、その人達にとってとても不本意なものかもしれない。

そう考えたら、私は少しも不幸ではないな、と思った。
だって、自分の意志でここに立ってるから。


「星野さん」

「ん?」


呼ばれて顔を上げると、ちゅっと音を立てて唇が触れた。


「!」

「ふっ、はは」


突然のことに真っ赤になると、可笑しそうに笑われた。

怒りたいのに、そんなに楽しそうに笑われたら、怒りがショボショボと萎んでいってしまう。


「……もう」

「星野さんが可愛いのが悪い。俺は悪くない」


…この殺し文句にも、いつまで経っても慣れることはない。

< 78 / 83 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop