309.5号室の海
***
駅のホームに、大きな荷物を持って立つ。
新幹線が来るまであと20分ほど時間があった。
「忘れ物ない?」
「はい、家の中もう空っぽなんで。全部宅配であっちに送ってるんです」
蒼井さんが、見送りに来てくれた。
まだ朝なのに、お店の営業が終わってから寝ずに来てくれたのだという。
「帰ったらしっかり寝てくださいね?」
「どうだろ、寂しくて寝れないかも」
本気か冗談かわからないような口調で、そんなことを言われる。
未だに、この綺麗な横顔には慣れることが出来ない。
ホームには、旅行に行くらしき大学生や、出張へ向かうサラリーマンがいる。
私のように、今から恋人と離れ離れになる人が、他にいるかもしれない。
そしてそれは、その人達にとってとても不本意なものかもしれない。
そう考えたら、私は少しも不幸ではないな、と思った。
だって、自分の意志でここに立ってるから。
「星野さん」
「ん?」
呼ばれて顔を上げると、ちゅっと音を立てて唇が触れた。
「!」
「ふっ、はは」
突然のことに真っ赤になると、可笑しそうに笑われた。
怒りたいのに、そんなに楽しそうに笑われたら、怒りがショボショボと萎んでいってしまう。
「……もう」
「星野さんが可愛いのが悪い。俺は悪くない」
…この殺し文句にも、いつまで経っても慣れることはない。