リリー・ソング
小さな声で、そう言った。
ああ、そうか。
深夜は引き止めたいんだ。紺のところへ向かって走り出そうとしている私を。
それなら、そう言って。
その手をそのまま伸ばして、私を抱きしめて。
私は私と同じ、オリーブ色の両眼を見つめて、祈った。
行かないで、とひとこと言って。
そうしたら、私は行かない。ずっとここに居る。深夜が眠るまで傍で見ていてあげる。
深夜がためらって、長いまつ毛を瞬かせた。
だけど結局、首にも、髪にも、肩にも触れることなく、その手を首元からゆるゆると、下ろした。
「……深夜。」
「気をつけて。」
私の声を遮って言った。
深夜はいつからか、私の肌には絶対触れなくなった。指先さえ触れない。注意深く、慎重に、それを避けている。
「…行ってきます。」
私は唇を噛みしめて、身を翻した。
エレベーターを使わずに階段を駆け下りて、エントランスを抜けて、顔に冷たい夜の空気がぶつかるのも構わずに走った。
深夜は言わない。
いつまでも。
「紺!」
泣くのを我慢して走ったのに、紺を呼ぶ自分の声が、泣き叫ぶみたいだった。
無人の小さな公園で、学校でいじめられた子どもが放課後にそうするみたいに、ブランコに座って俯いていた紺が顔を上げた。
「リリー。ごめんね。急に。」
「いいの。どうしたの? 北海道は? 撮影は?」
「うん…」
「痩せた?」
紺もすっかり痩せていた。
頬がこけて、大きな眼が目立っていた。