リリー・ソング
戻るのが怖いのは、私も同じだった。
だけど私も戻らないと。深夜が待ってる。
走って汗をかいていたけど、深夜のコートが私を包んでいたから、冷えることはなかった。
鼻先をファスナーの上がりきった襟口に埋めたら、深夜の匂いがした。
こんなに。
こんなに、自分の匂いで、私を暖かく包んで、他の男の人のところに送り出すなんて、おかしい。歪んでる。榎木さんの言う通りだ。
足を引きずるようにして部屋の前に辿り着いても、ドアを開けることができなかった。
「深夜…」
私はドアの前でずるずるとしゃがみ込んでしまう。
いつから、この部屋に戻るのがこんなに苦しくなってしまったんだろう。
深夜が海の底から引き上げて連れてきてくれたところなのに。
あの時、私たちは確かに幸せな、ただの、兄妹だったはずなのに。
いつから、私は。
私たちは、此処を…
このドアの向こうで、きっと深夜が息を潜めて沈んでいる。
行かないで、と言わずに私を送り出したことを、正しかったのだと、空白を抱えて。
私を、愛している、と。
深夜は言わない。
此処こそが海の底だ。
私たちが、海の底にしてしまった。