ばくだん凛ちゃん
「兄さん、ちょっといい?」

翌日、生駒医院の診察が全て終わってから僕は事務室で雑務をしている兄さんに声を掛けた。

「どうした?
ハルちゃんと大喧嘩でもして家に帰られないのか?」

兄さん、相変わらず毒舌だな。

僕は首を横に振って苦笑いをする。

「もう少し、時間が欲しいな、僕」

それだけで兄さんは意味を理解したらしく、ゆっくりと頷いた。

「で、透はどうしたい?」

兄さんの目が僕を捉える。
この人の前では絶対に嘘はつけない。

「僕、このまま当直や呼び出しのある生活をしていたら家庭が崩壊すると思う。
紺野を退職しようと思うんだ。
辞めて、当直や呼び出しが基本ない病院へ行こうかと」

「それなら潔く僕の所へおいでよ、前から誘ってたんだし」

兄さん、何だか嬉しそう。

「ここなら当直や呼び出しがない。
日曜、祝日は休日診療所に行くときもあるけれど紺野の勤務と比べたら随分楽だよ。
ここなら院長は僕だし、当面、透は勤務医と何ら代わりない。
給料もそれほど考えなくて良い。
まあいずれは色々と手伝って貰う事もあるけれど」

そう言って兄さんは書類棚からクリアファイルを1枚、取り出した。
それを僕に渡す。
中身は僕に宛てた雇用契約書だった。

「僕はいつ透がこちらへ来ても良いように常に準備しているから」

うわ…。
兄さんの顔があっという間にボヤける。
クリアファイルの上に涙が落ちた。

「独身の時の透とは立場も違うし、背負っているものも全然違う。
ハルちゃんと凛の為に来い」

生まれて初めて兄さんは僕に命令をした気がする。

その言葉を有り難く受け止め、僕は頷いた。

「あ、そうそう。
新しい命の為にもね」

そう言って微笑む兄さん。

「透がここに来てくれたら病院のレベルも上がる。
お前を知っている患者さんはウチに来てくれる。
全て上手く解決するよ」

「ここの病院のレベルは上がっても僕のレベルは低下するかも」

一番の心配は今まで見てきた最先端の症例が見られなくなる事。
僕の経験は全て過去のものになってしまって、きちんとした治療方法を打ち出せるのかどうか、だ。

「大丈夫だよ、透。
お前はそういう最前線にいなくても常にアンテナを張って自分で調べるじゃないか。
僕は透のそういう勤勉な部分も買っているんだよ」

僕は最高の評価を兄さんから貰ったのかもしれない。



翌日。
紺野に退職の意を伝えた。
退職日は7月31日。
8月1日には生駒医院の常勤となる。
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