巫部凛のパラドックス(旧作)
 ようやく視点が定まってくる。巫部の腹から突き出ている違和感は、長刀のようで、背中から腹まで貫通しており、即死状態だということしかわからないでいた。
 巫部の死体の前に言葉がでない。目の前で人が死んだ。一体何なんだこれは、こんな状況は想像すらできなかった。だが、それが今、目の前で起こっている。夢なら早く覚めてくれよな。
「夢じゃないわよ」
 俺の思考を完全に否定する聞き覚えのある声に我を取り戻し、声の主を探そうと周囲を伺ってみるが、その主は一向に見当たらない。
「ここよ、ここ」
 声の主は、巫部の背後から聞こえている。巫部の亡骸越しに視線を向けると、そこには、長刀の柄をしっかり握ったゆきねがいた。
「……」
 三度固まる俺。ちょっと待て、状況を整理すると、目の前には、腹を一突きにされた巫部。その後ろには、長刀を握っているゆきね……って。こいつが巫部を殺ったのか?
「ちょっ。ちょっと待てよ。なんで、お前が巫部を……」
 やっとの思いで喉から絞り出した言葉に、
「ちゃんと約束を守ったのね。一応、お礼を言っておくわ」
 至って普通の声で返答したゆきねは、長刀を巫部から引き抜いた。既に肉の塊と化していた「巫部だったもの」は、なんの意思も見せずに廊下に転がった。
「なっ、なんなんだよ。何が起こっているんだ」
 未だに俺の心は動揺している。そりゃそうだろう。目の前で人が殺されて、その犯人が知り合いときたら、どんな屈強な奴でもパニックの一つでも起こすだろう。
「説明は後よ。始まるわ」
 ゆきねはこんな事態なのにいつもの口調で、俺に語りかける。その瞬間、世界が大きく変形したような気がした。背景が歪み、水面越しに見ているかのようだ。その後、その歪んだ景色は段々と黒に変化し、俺とゆきねの周辺が黒一色に染まるのにさして時間はかからなかった。例えるならそう、暗黒の世界のようだった。
 俺たちが完全に黒の世界に飲み込まれると、俺が次に感じたのは、どこかに落ちているという落下感だった。遊園地とかにあるフリーホールを思わせる、その胃が少しだけ持ち上げられるような感覚だ。しかも周囲に景色は見当たらず、闇の中をどこかに向かい落下しているだけだった。何故だ。何が起こっている。俺たちは階段の踊り場にいたはずで、「落ちる」という要素に心当たりはない。
 暗闇の中をただひたすら落ちていく。視界が奪われては落ちているのか、上っているのか、飛んでいるのか判断がつかない。三半規管が完全に麻痺しちまったように、上下左右が目まぐるしくいれかわり、同時に俺の意識も薄らいでいった。


 …………………
 …………
 ……

 段々と意識が浮上してくる。視覚は黒一色だったのに対し、初めは点だったものが四隅に向かって白が広がり、今では俺の周りを包み込んでいた。
「はっ!」
 意識が戻るのと同時に顔を上げた。瞬間的に俺の視覚に飛び込んできたのは、白い壁と暖かな日差しが差し込む窓。どこかで見たことのある風景だと周囲を伺うと、何ということはない。いつもの生徒会室だった。
「なんで、俺はここにいるんだ?」
 若干パニックに陥りそうな脳を冷静にと言い聞かせ、状況の整理を試みる。たしか、さっきまで俺は、階段の踊り場にいて……あれ? なんで、あそこに行ったんだっけ?
 記憶がまだ混乱しているらしいが、落ち着いて思考を巡らせてみると、おぼろげながらに記憶が戻ってきた。
「――っ!」
 蘇る赤い記憶。あの惨状を脳裏に表してしまった俺は、胃の奥から遡上してくるものを口に手を当てることでなんとか押し戻した。そうだ、確か巫部はゆきねに殺されて……。
 もうこれ以上思いだしたくない。まるで、記憶が拒否しているかのようだ。あんなもんは今後一切見たくはないもんな。
「だが、何故ここにいるんだ?」
 あの現場の事は保留にするとしても、ここには、もう一つ疑問がある。それは、何故俺は生徒会室で寝ていたかということだ。たしかゆきねが巫部を刺したあと、どこかに落ちていくような感覚があって、気づいたらここにいた。どうなってんだ?
 考えていてもまるで答えが浮かばない。ここで、ミステリの主人公ならば、置かれている状況を即座に推理できるのだろうが、あいにく、俺は一般人だ。そんな芸当はできるわけないのだ。
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