興味があるなら恋をしよう−Ⅰ−
☆
「課長…、あの、確認印をお願いします」
これだけ言うのにも実はドキドキしていた。
「ん?…ん、はい。ちょ~っと待っててくれるか…直ぐだから」
「はい」
きっと急ぎの仕事の途中だ。ふぅと息を吐き、トントンと書類を整えると横に避けた。終わったみたいだ。
「よし。はい、いいよ、…貸して」
顔を上げた。
「……あっ。あ、はい、これです、お願いします…」
両手で差し出した。
「ん。…うん…うん…うん。ん?…うん。よし、いいだろう。OKだな」
課長は印鑑を押した。あっという間、…終わった。
綴じられた書類をめくる度に相槌を打ちながら確認する。知ってる。これは最近の課長のルーティンだ。
もう次の書類を取り出していた。
「……ん?」
「…あ。何でもないです、有難うございました」
中々机の前から離れなかったから…。まだ用があると思われたのかもだ。
「ん。あっ、藍原」
「はい?」
…なんだろう。
「悪い、今、手は空いているか?」
「はい、大丈夫です」
「では…」
引き出しから書類の入ったファイルを取り出した。
「これをだな…え〜と何人だ…」
「…5人、です」
「…ん、…人数分コピーしてデスクに配って置いてくれるか」
「はい」
「追加された事務処理規定だ。いつもの事だが、回覧しても、見て無いと同じだからな。印鑑押して回してるだけで、覚える者なんか居ない。写し取る者も居ないし」
あー、あー、耳が痛い。
「適当に間違って処理されたら面倒臭いし。個人でもきちんとファイルしておくように伝えておいてくれ」
「解りました」
返事をして原本を受け取ったにも関わらず、まだ課長のデスクの前に居た。
「…ん、どうした?まだ何かあるのか?解らないことでも…終わったら返してくれ」
そのくらいは…解ってますよ…。
「あ、いえ。はい……あの…」
そうではない。
「ん?何だ?」
うわっ!…どうしよう…。さっさと退散しておけぱ良かったのだけれど…。
「いえ、あの………あ、やっぱり何でもないです、コピーですよね」
はぁ。何してるんだか…。。我ながら…。
「ああ、単純に、コピーだ。……言い掛けたことは何だ…何かあるから話し掛けようとしたんじゃないのか?」
そうでもあるような、ないような…。話し掛けるというか、返事をしたけどそれは…それに仕事の話って……そうでもないから…。でも。
「では…あの、課長は」
「ん?」
「お住まいは…」
「ん?!お住まい?住所か?…大胆な聞き方するなぁ。ハハハ、……知りたいのか?」
なんてことを嘴ってしまったのだろう。体の前で両手を高速で振った。あ、いや、この期に及んで……何を訊いてしまったんだろう。…もう…。こんなの絶対変だ。
「あ、いや違います違います。滅相もないです。…住所ではなくてですね…、えっと…、あっ、そうです、実家暮らしとか、マンションとか…そういうような…意味で聞きました」
…ふぅ。住所…知りたいといえば知りたい。一人暮らしなのか同居してるのか、それだって、どういう意味だって顔してる。そうですよね、理解不能ですよね、こんなことをいきなりだなんて。
だいたいこの話は仕事に全然関係ないし、さっきの事務処理の文書にも掠りもしない。
仕事中だっていうのに…何をいきなり訊いているんだか…。
…。
そりゃあ、この沈黙になりますよね。どういう意図があるんだって…。
でも、今に限らず滅多にないチャンスがあるなら、何でもいいから、とにかく少しでも話す取っ掛かりが欲しかった。それだけなんです…。
それを……何の考えもなく咄嗟に出た言葉がお住まいはなんて。はぁ、何考えてるんだって呆れられたかな。そうですよね…戻ろう…。
「…マンションだが?」
「……え?」
答えてくれるとは思わなかった。
「マンションだ」
「あ、何だかすみませんでした。有難うございました」
頭を下げて逃げるようにしてデスクを離れた。
「あ、おい、藍原…」
…何だアイツ。…マンションだって知って…?何だってんだ?確認した書類も置いて行ってるし…。