女神は蜘蛛の巣で踊る
「トイレ行って・・・帰ろうかな」
もう夫もうんざりしてるころだろうし。それを想像すると、ちょっと笑えるけどね。私はくっくっくと口の中で笑いながら、トイレへと向かう。
今からだったら帰ってお風呂に入っても、まだ居間でゆっくりする時間があるわ。今晩は雅坊はおばあちゃん家でお泊りだし、二人でゆっくりして────────
その時、通りかかった無人の受付後ろのクロークから、人が出てきた。
チラリと目をやるとホテルの従業員のようだった。受付の交代時間かしら。そう考えて、私に気づき体をよけ、頭を下げているその男性に会釈を返す。
その時何気なく彼の胸元を見たのは、デパ地下で働く百貨店従業員のクセだったといえるだろう。
相手の立場、百貨店の社員なのか、メーカーの社員なのかを見極めるため、普段からまず名札を見るクセがあるのだ。そしてそのホテルの従業員と思われる格好をした男性の名札には────────あれ?
私は瞬きをする。
自分がすれ違うのを待って頭を上げ、去っていこうとしている男の胸には・・・・名札が、なかった。
思わず立ち止まって、振り返る。
私のヒール音が止まったのに気づいたらしい男も、ちらりと背中越しに私を見た。
「あなた・・・名札は?」
どうでもいいことだった。
私には関係のない、本当にどうでもいいこと。
だけどそう聞いてしまった。きっと、怪訝な顔もしていたし、声にも疑問が含まれていたと思う。
「・・・」
男は立ち止まり、体を半分こちらへ向けて私を見た。
黒髪を後ろにながしてあり、白いシャツに棒タイ、ピシッとしたホテル従業員のスーツ・・・・だけど、違和感がある。
酔っ払っていた私は、無遠慮にマジマジと見てしまったのだ。