偽りの姫は安らかな眠りを所望する
力が抜け、ぺたんと草の上に座り込んでしまったティアを置き去りにして、少年は振り返りもしない。
近くに繋いであったのか、青毛の馬にひらりと跨がるとあっという間に館の方へと走り去ってしまった。

「なんなの? いったい」

自分は名乗りもせず、人に素性を尋ねたくせにこちらの答えを待ちもしない。
ずいぶんと自分勝手な振る舞いに、ティアの憤りは募っていく一方だ。

落とされた紐を拾い握り締めた。解放された髪が視界に入り、ティアは顔を曇らせる。

『夜の色は闇に通じ、魔に通ずる』

そう称された自分の髪と瞳の色が、この国では稀で忌み嫌わるものであることは知っていた。
子どもの頃は父親と同じこの色が好きだったのに、クレトリアへ来てからは自分が常に余所者といわれている気がして嫌いになった。
もちろん、屋敷の者にそんな仕打ちをされたわけではないのだけれど。
唯一の身内である祖母が他界してからは、いっそうその思いが強くなっていた。

その『魔』に平然と口づけを落とした少年。

もう見えなくなった彼の姿が消えた館の方角を眺めやる。

あそこの人?
使用人にしてはずいぶんと質の良い服を着ていたようだがと、怪訝に思う。

ティアはどうにか気を取り直し、立ち上がって服についてしまった枯れ草を払う。
鞄を持ち直して白薔薇館に向け一歩足を踏み出すと、ぶわっと向かい風が吹き抜けていった。

くん。

その風が運んできた匂いに鼻を鳴らす。
青い草の強い香りに混じる、甘く優雅な、それでいてどこか尖っているような不思議な薔薇の香り。
それが、さっきの少年の姿に重なった。

ざわざわと騒ぎ始めたティアの心は、新しい場所への不安によるものなのか。
それとももっとほかに理由があるのかは、彼女自身まだわからないままだった。
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