偽りの姫は安らかな眠りを所望する
すでに薄暗くなり始めていた林を抜けると見知った街道に出る。あとは白薔薇館まで一本道だ。

荷台で庭の手入れに必要な道具などがガタガタと揺れている。狭い御者台に並んで座ったふたりは、沈んでゆく夕日に目を細めながら、ぽつりぽつりと会話をしていた。

「そういえば、うちの中であの薔薇の精油瓶をみつけたんです」

「ああ。きっとそれは何年か前に、マールに頼んで一本だけ試作してもらったものだね。あの年は気象条件がよかったのか、いままでで一番華が付いたから」

精油を作るには大量の花が必要になる。あの丘に咲く薔薇を全部採って精製しても、やっと小瓶数本分になるかどうかというところ。
実際に商用とするには広大な面積の薔薇園を造らなければならない。実現にはもう少し時間をかける必要がありそうだ。

「なんでうちにあったんでしょう?」

素朴な疑問に対し、セオドールは大袈裟についたため息で応えた。

「それは、誰かさんが薔薇の花も匂いも毛嫌いしていたから。庭園にあった薔薇は全部引っこ抜いて燃やしてしまったし、あれが開花している間は窓も開けないくらいだからね。念には念を入れて、彼女に保管をお願いしていたんだよ。貴重な精油を彼に見つけられたら、どうなっていたか」

ティアは思いあたる節がありすぎて苦笑する。薔薇のことを尋ねただけで激しく感情を荒らげたフィリスを初めて目の当たりにしたあの日からどれくらい経っただろう、と想いを馳せて、それほどの月日が過ぎていないことに気づいた。

「やっぱりお母様のことを思い出してしまうから、でしょうか」

嗅覚は記憶と密接に関係している。本人には自覚がなくても、あの香りがロザリーの死と結びついてしまっているのかもしれない。
いつの日か、彼が薔薇の香りを嗅いでも辛い記憶を呼び起こすのではなく、懐かしいと思える日が来るといいと願う。

「たぶん。でもね、今日彼は、あの満開の薔薇の中で眠っちゃったんだよ。それって、あの子の中でなにかが変化しつつあるってことじゃないのかな」

「そう、ですね」

どんなに寝不足だったとしても、あれだけ嫌がっていた香りの中でそう簡単に熟睡できるとは思えない。だとしたら――。

「あの瓶は、フィリス様にお渡ししていいですか?」

今すぐには無理だとても。
セオドールは前を向いたまま静かに頷いた。

「そうだ! セオドールさんの本当の名前を教えてください。そちらで呼んだ方がいいですよね」

手綱を握ったままこちらに向けた目が、何度も瞬きを繰り返す。
本当のことを知ったのに、いつまでも偽名で呼ぶのは申し訳ないような気がしたからで、彼女にはそれほどおかしなことを尋ねたつもりはなかったのだが。

「……それも、もう捨てちゃったから」

返された苦笑いで納得した。彼はもうベイズ家の名を名乗るつもりはないのだろう。

「じゃあ、あの薔薇の開発者であるセオドールさんに、ひとつ言ってもいいですか?」
< 123 / 198 >

この作品をシェア

pagetop