偽りの姫は安らかな眠りを所望する
* 偽りは薔薇の香りに包まれて
* 偽りは薔薇の香りに包まれて

「さっそくで悪いのだけど、ここの窓を拭いておいてもらえるかしら」

そう言ってカーラに案内されたのは、館の表側にあたる談話室。
主が招いた客を、茶や音楽でもてなす場所だ。

ヘルゼント伯爵家にはたくさんの使用人がいて手が十分だったため、香薬師見習いとして働いていたティアは、そこへ足を踏み入れたことがなかった。未知の領域に少しだけ心が躍る。

カーラから掃除道具を受け取ると、真鍮の把手に手をかけ、見事な薔薇の浮き彫りが施された重厚な扉を慎重に開けた。

薄暗い廊下にいたティアは、南側一面の窓から差し込む昼下がりの陽差しに目が眩む。
大きく開け放たれた窓から吹き込む、あの薔薇の香りを伴う心地よい風が頬を撫で、ティアを出迎えてくれる。

ようやく明るさに慣れ薄く閉じていた瞼を上げると、そこには絵画をくりぬいたような光景が現れた。

窓際から少し離れ、直接の陽差しを避けた場所に置かれたひとりがけの椅子に腰掛けた人影。
静かに手にした本へ目を落としている姿は、そこだけ時が止まったようだ。

逆光で顔貌がはっきりとはしないが、その優雅な佇まいと身を包む衣裳の上品さで、彼女の正体は、誰に訊かなくてもティアにはわかった。

予想外の出来事に走った緊張を精一杯隠し、急いで掃除道具を脇に片付けると、腰を落として挨拶をする。

「お初にお目にかかり、光栄に存じます。ヘルゼント伯爵家より参りました、香薬師見習いのティア=ベレンゲルと申します」

主人の許しがあるまで顔を上げてはいけない。
ここに来るまでの数日間に、シーラから教えられた必要最低限の作法を頭の中で何度も繰り返す。

ティアはヘルゼント伯のもとが、どれだけ気楽だったかを思い知らされていた。
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