偽りの姫は安らかな眠りを所望する
言い淀んだティアが持つ小刀の刃が僅かに下を向いた隙を、ダグラスが見逃すはずはない。か細い手首を片手で易々と掴んだ彼に、なんの抵抗もできないうちにあっさりと刃物を奪われてしまった。
ティアとは反対側の自分の脇に鋭い刃先を突き刺すと、馭者席に小刀が立っているという奇妙な光景ができあがる。彼の鍛えられた身体の向こう側にある刀を取り返せるとは到底思えず、ティアは観念して俯いた。
「伯爵のところ以外に行きたい場所があるなら、俺が連れてってやるよ。さあ、どこだ?」
「それでは、ダグラスさんに迷惑がかかってしまいます」
主の命を破るということは、使用人にとっては大きな罪となる。自分の身勝手に彼を巻き込むわけにはいかない。
「んー、でもなあ。確認するけど、嬢ちゃんにはお妃様になるつもりはないんだよな?」
ティアは間を置かずに頷く。それは彼女の中で、どうあっても変えられないもの。
「あたしには、そんな資格も覚悟もありません」
「……相手がフィリス様でも?」
膝の上にあったティアの手は、白くなるほど固く握られている。手のひらに食い込む爪の痛みによって、なんとか理性的な判断を下すことができた。
「祖母みたいな香薬師になりたいんです」
『貴重な香草を、時には諦める判断も必要だ』そうティアに諭した祖母のように。自分の手は、あれもこれもと欲張れるほど大きくないことをわかっている。
そのまま固く口を塞いでしまったティアに、ダグラスはやれやれといったふうに首を竦めて頭を掻いた。
「まあ、それもしかたがないか。確かに王妃なんて仕事、面倒なだけだもんなあ。それにご主人様から仰せつかってるし」
「ご主人……様って?」
訝かしげに顔を上げたティアに、厳つい顔をにやりと人好きのする笑みに変える。
「俺が仕えているのは、今も昔もベイズ家だ。ヘルゼント伯爵家じゃない。王宮騎士だって、ロザリー様を守るためだから引き受けた。……結局は守り切れなかったがな」
深いため息を吐き出したあと、ダグラスは大きな手でぐしゃぐしゃとティアの頭を撫でた。
「フィリス様から頼まれている。嬢ちゃんの行きたいところへ逃がしてやってくれってな」
見開かれたティアの瞳が揺れる。
「さあ、どっちへ行く? どうせ気楽な独り身だ。どこまでだって付き合ってやるぜ」
まるで遊びに行くかのように判断を待つダグラスから視線を外す。瞼を閉じ何度も深呼吸して選んだ道を、目を閉じたままのティアは伸ばした指先で指し示した。
ティアとは反対側の自分の脇に鋭い刃先を突き刺すと、馭者席に小刀が立っているという奇妙な光景ができあがる。彼の鍛えられた身体の向こう側にある刀を取り返せるとは到底思えず、ティアは観念して俯いた。
「伯爵のところ以外に行きたい場所があるなら、俺が連れてってやるよ。さあ、どこだ?」
「それでは、ダグラスさんに迷惑がかかってしまいます」
主の命を破るということは、使用人にとっては大きな罪となる。自分の身勝手に彼を巻き込むわけにはいかない。
「んー、でもなあ。確認するけど、嬢ちゃんにはお妃様になるつもりはないんだよな?」
ティアは間を置かずに頷く。それは彼女の中で、どうあっても変えられないもの。
「あたしには、そんな資格も覚悟もありません」
「……相手がフィリス様でも?」
膝の上にあったティアの手は、白くなるほど固く握られている。手のひらに食い込む爪の痛みによって、なんとか理性的な判断を下すことができた。
「祖母みたいな香薬師になりたいんです」
『貴重な香草を、時には諦める判断も必要だ』そうティアに諭した祖母のように。自分の手は、あれもこれもと欲張れるほど大きくないことをわかっている。
そのまま固く口を塞いでしまったティアに、ダグラスはやれやれといったふうに首を竦めて頭を掻いた。
「まあ、それもしかたがないか。確かに王妃なんて仕事、面倒なだけだもんなあ。それにご主人様から仰せつかってるし」
「ご主人……様って?」
訝かしげに顔を上げたティアに、厳つい顔をにやりと人好きのする笑みに変える。
「俺が仕えているのは、今も昔もベイズ家だ。ヘルゼント伯爵家じゃない。王宮騎士だって、ロザリー様を守るためだから引き受けた。……結局は守り切れなかったがな」
深いため息を吐き出したあと、ダグラスは大きな手でぐしゃぐしゃとティアの頭を撫でた。
「フィリス様から頼まれている。嬢ちゃんの行きたいところへ逃がしてやってくれってな」
見開かれたティアの瞳が揺れる。
「さあ、どっちへ行く? どうせ気楽な独り身だ。どこまでだって付き合ってやるぜ」
まるで遊びに行くかのように判断を待つダグラスから視線を外す。瞼を閉じ何度も深呼吸して選んだ道を、目を閉じたままのティアは伸ばした指先で指し示した。