偽りの姫は安らかな眠りを所望する
「疑うなら触ってみるか? ティアは……あまり変わっていないな。いいや、髪が伸びたか」

あと一歩の距離をさらに縮めたフィリスに、優しい瞳で見下ろされる。彼の動きが作る風には、あの薔薇の他に、土と埃と少しの汗の匂いが混じっていた。

低い声に誘われ上げた指先が、おそるおそるフィリスの頬に触れる。陶器のようだった白い肌にざらざらとした違和感を感じて引こうとしたティアの手は、フィリスに捕まってしまった。そのまま抱き寄せられて、広くなった胸の中にすっぽりと収まってしまう。

息苦しいくらいに強く抱かれ、必死に胸を押し返して隙間を作る。フィリスの存在が現実だということはよくわかった。
だがそうなると、ティアの心に別の心配がわき上がる。

「ど、どうして、フィリス様がここに? 白薔薇館へは戻られなかったんですか? あたしの手紙に……」

カーラに渡した紙の仕掛けに気付いてもらえなかったのか。

『ヘルゼント伯爵の元へは戻らない。だから、自分などのために意に沿わないことはしないで、あなたの穏やかな暮らしを守って欲しい』

そうしたためたはずなのに、彼はこうしてここにいる。ティアの覚悟は無駄になってしまったのかと訝しんだ。

「読んだ。だからオレは、すべてを捨ててここへ来た。フィリスじゃなくて、フィルになって」

彼の言葉にティアは目を見張る。

『フィルがフィリス様だったのではなく、フィリス様がフィルだったらよかったのに』

それは手紙の最後の最後に吐露してしまったティアの本心。
その一文が意味するところに思い至ったフィリスは、すべてをなげうってここへやって来たのだ。

自分は、彼の傍らにいることよりも香薬師として生きることを選んだのに。
フィリスが手放したものの大きさを思うと、ティアは嬉しさよりも申し訳なさが先に立つ。

いまにも泣き出しそうな顔をしていたティアの右手を、フィリスが穏やかに微笑みを浮かべながら捧げ持った。
その指先に口づけをする。

「なにがいらなくて、なにが必要か。それを決めるのは自分自身。そしてオレは、迷わずにティアを選んだ。ただそれだけのことだ」

そのまま今度は手の甲へと唇を落とす。

「この優しい手がオレのものになるのなら、王座も、豊かな生活も、まったく惜しいとは思わない」

続いて夜色の髪に、滑らかな額や頬に。近すぎる彼の顔に思わず瞑ってしまった瞼の上に。次々とフィリスは口づけでティアを搦め捕る。

屈んで低くなった頭をティアの首元に埋め、耳の下から首筋を伝い、小さな音を立てつつ触れていく。それに身動ぎを起こしたティアを吐息で笑ってから、フィリスはようやく顔を上げた。
< 189 / 198 >

この作品をシェア

pagetop