偽りの姫は安らかな眠りを所望する
「以前みたいに、寝室がいい。その方が落ち着く」

「そうなの? ……えぇっと、こっち?」

あたしが以前はダグラスさんが使っていたフィルの寝室を指差すと、首を横に振って否定する。確かに、元は物置だったところに手を入れて部屋にしたから、なんとなく窮屈な感じがするのかもしれない。

ちなみに今、ダグラスさんは大きな身体で屋根裏部屋住まいだ。早く増築できるだけの資金を貯めなくちゃいけないとは思っている。
フィルは「早く国へ帰れ」なんて追い出そうとするけれど、ダグラスさんにはまったくその気がないらしい。
訊けば「ベイズの印章を持っている方が、自分の主人だ」と言う。それにフィルは、すごく嫌そうな顔をしていた。

それじゃあ、と少しだけ躊躇いながらあたしの部屋の扉を開ける。

香薬に関するもの以外で特に変わった物が置いてあるわけじゃないのに、なんだかとっても気恥ずかしい。
それなのにフィルは悠然と中へ進んで、あたり前みたいに寝台の縁に腰掛けてしまう。そんな変わらない彼の態度に苦笑しつつ、あたしは準備を始めた。

薫らす精油は、窓から入る薔薇の香りを邪魔しないよう控え目に。施術にはネロリを使おう。
用意が整うと、あたしはフィルの前に丸椅子を置いて座った。

約二年ぶりにじっくりと触る彼の手は、更に大きくなったみたい。両手を使ってまんべんに香油を行き渡らせる。
長い指は骨太になり節が目立つ。左手の親指の付け根にそれほど古くない傷の跡を見つけて、思わず眉をひそめてしまった。

「ここに辿り着くまで、大変だったでしょう?」

指先で白い肌に薄らと赤く走る傷跡をなぞると、彼からくすりと小さな笑いが零れる。

「そうだな。まず旅支度をするのが大変だった。ラルドは『南』としか教えてくれなかったから、どのくらいかかるかも見当がつかなかったし」

「ラルド様が?」

「ああ。城から出してくれたのは助かったが、ヤツが馴染みの娼館に連れて行かれて面食らった」

ラ、ラルド様の、馴染みの……娼、館? 娼館って、あのキレイな女の人がたくさんいるという、あの?? 
衝撃を受け手が止まったあたしを放っておいて、フィルは話を続ける。

「外套にコニーが隠しポケットを作って、そこへ換金できそうなものをいくつか入れてくれていたから、ありがたく使わせてもらったよ」

しみじみと言う彼の話の中に懐かしい名前が出てきて、あたしまでしんみりしてしまう。
コニーさんや白薔薇館の皆さん、元気にしているのかな?

あの白薔薇館で過ごした日々を思い出せば、動揺していた気持ちが徐々に凪いできて、また施術を続けることができた。
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