偽りの姫は安らかな眠りを所望する
「そこの女将に、南へ向かう隊商を紹介してもらって紛れ込んだ。国境付近で別れるまでの道中はいろいろと勉強になった。いくつかの国の言葉が話せるのと読み書きができたから重宝されて、このまま残らないかと誘われたけど――」

ふっとフィルの口元が緩んで、柔らかな眼差しが向けられた。あたしの顔と手がかっと熱くなるのを感じ、慌てて俯き彼の手に集中する。

「大切な人が待っているからと断った」

きゅっと、彼の手を持つあたしの手に力が入ってしまった。心臓のドキドキが、手まで伝わっていないかが心配になる。

「なんとかクレトリアを出てサランに来たけれど、右も左もわからなくって。あちこちの町や村を尋ねて歩いたよ。『腕のいい香薬師を知らないか』とね。旅費を捻出するために、いろんな仕事もした」

「……どんな?」

この手を見れば、辛いものが多かったのだと推測するのはとても簡単だ。
布で香油を拭き取るふりをして、自分の両手で包み込む。ほんの少しでも彼の苦労が癒やされますようにと。

「いろいろ。皿洗いから始まって行商の護衛とか。恋文の代書なんてものあったな。井戸掘りは結構キツかった。他にも……」

フィルはちょっとだけ困ったように顔を歪めて言い淀む。それは、いつかセオドールさんが見せたものによく似ていた。
きっと、ダグラスさんに頼り切りだったあたしなんかが想像もつかないくらい、大変な思いをしたに違いない。

気がつけば、ぽたりと施術の終わった彼の手の甲に、涙を落としてしまっていた。

「ごめ、ごめん、なさい」

「なぜティアが謝らなければいけない?」

先に施術の終わっていた方の指先が、溢れそうになっていた涙を掬ってくれる。その温かさが新しい涙を誘って、ますます止まらなくなってしまう。
それを拭うために上げた手が、フィルに捕らえられた。

「ティア、こっちへ来て」

穏やかな声で手を引いて自分の隣を示すから、あたしは素直にそれに従う。

あの館のものとは違い簡素な寝台が軋んで、ギシッと大きな音がした。

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