偽りの姫は安らかな眠りを所望する
三人が屋敷に着く頃には、すっかり暗くなった空からぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。
待ち構えていたヘルゼント家の馬丁が、フィリスとラルドの馬を厩舎へと連れていくのを見届けると、同じく帰りを待っていた家令が、重厚な扉を開け頭を下げた。

「お帰りなさいませ。お支度は調っております」

「ああ。こちらのお客様をご案内して」

指示に従い、ティアも顔見知りの侍女がフィリスを中へと案内する。
それに続こうとしたラルドがおもむろに振り向いた。ティアが足を止めたままだったからだ。

「どうしたの? 濡れちゃうよ。早く中へ」

「こちらからは入れません。あたしは裏口から……」

正面玄関に背を向けようとしたティアの腕を、ラルドが掴んで引き止める。

「なに言ってるの? さあ、行こう」

「ですが」

ここで働いていたときには、屋敷内に足を踏み入れることさえ稀だった。
使用人の身で表玄関からは入ることはできない。躊躇い俯くティアの頬に、ラルドが片手を添え顔を上げさせた。

「前から言っているじゃないか。ティアは僕の大切な家族だよ。いい子だから言う通りにして」

腰を屈めたラルドに耳元で囁かれて、ティアはぶるりと肩を震わす。
いつも通りの冗談めかした甘やかさの中に、なぜかちりちりとしたものを感じたせいだ。

「ラ、ルド……様?」

大きな瞳を揺らしてティアが青い瞳を見返すと、ラルドは薄笑いを浮かべた眼を逸らして屋敷の中に声をかける。

「シーラ。頼んだものは用意しておいてくれたかい? ティアをお願いするよ」

「はい。……ですが、本当によろしいので?」

戸惑いの色が覗く声音で確認する侍女頭に、彼は艶然と微笑む。
くっきりとした二重の眼は緩やかな弧を描いているが、その中心にある青い瞳は凍てつく真冬の空のようだった。

「もちろんさ。……ティア、シーラがこの国一番の淑女にしてくれるからね」

細い腰に手を回したラルドに、屋内へと誘われる。彼の声色と手には、抵抗が許されない力が込められているような気がして、ティアはおとなしく従った。

背後で重い扉が閉じられ、徐々に強さをましてきた雨音が遮断される。
それでも近づいてきた雷の音が、窓にはまるガラスを揺らし、初めて正面から入った屋敷の玄関広間に気圧されるティアの緊張をいや増す。

「こちらへ」

後について来るようにと促すシーラの声は心なしか硬く、他人行儀にも感じられた。

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