叶わぬ恋ほど忘れ難い
状況が全く分からない。わたしは「佐原祐介」と書かれた名刺を手に持ったまま、なぜか店長の車の助手席に乗っている。あまりの混乱に言葉が見つからない。
「戻って来たよ」
ようやく、そんな説明があった。
「戻ったって、こっちにですか?」
「そう。新しく店をオープンさせるから、そこの店長になる。憶えてない? 四年くらい前に閉店した国道沿いの店舗。あそこを再オープンする」
「それはおめでとうございます」
「土曜日にみんなで集まった時、サプライズで登場して発表したんだけどね」
ああ、そうか。いずみんが言っていたサプライズ企画というのはこのことだったのか。それならサプライズがあると聞かされていても、ちゃんと驚く自信がある。
「崎田さんも来るかなって楽しみにしてたのに来ないからさ」
「それでわざわざ個別に驚かせに来たんですか?」
「そうそう」
「ありがたいですが仕事しなくていいんですか?」
「オープン準備は週末から。引っ越しもあったし、引き継ぎやらなんやでしばらく休みなかったから有給休暇中」
「新居の片付けは終わったんですか?」
「いや、全然」
「片付けてくださいよ。オープンしたらまたしばらく休みなくなりますよ」
こんな所でこんなことをしている場合ではない。片付けもそうだし……。
「奥さんと、お子さんは……?」
聞くと店長は少し間を置いてからふっと笑い「離婚した」と言った。
わたしはしばらく、その言葉の意味を理解できずにいた。たった一言なのに、その言葉はとても重く、理解しがたい。
答えないわたしを見て、店長はこの五年間で起きたことを話してくれた。
五年前、地元に戻った店長は地元の赤字店の経営を立て直すべく、朝から晩まで忙しなく働き、奥さんは近所のスーパーでレジ打ちのパート。
あまりの忙しさに、こっちにいた時以上に家に帰れず、深夜に帰宅しても食事すらない。たまに顔を合わせても喧嘩ばかり。ほんの些細なことが気になり、すぐに言い争う。もうすっかり結婚生活は破綻し、夫婦というよりただ同じ部屋で生活しているだけの他人のような状態になってしまっていたという。
それでも親の反対を押し切って結婚した手前簡単に離婚することもできず、どうにかこうにか形だけの夫婦を続けた。
しかし数ヶ月前、奥さんの妊娠で状況が変わる。突然の、しかも全く身に覚えのない妊娠だったらしい。避妊はしていたし、それ以前にもう長い間「そういうこと」をしていなかったという。
だけど奥さんが身籠った以上奥さんの子どもであることに違いはない。自分の子として育てる決意をした。わたしにメールが届いたのはこの頃のこと。
でもそれも束の間、見知らぬ男が家にやって来て、お腹の子の父親は俺だから離婚してほしい、と迫った。
「すぐ頷いたよ。ちょうどこっちに戻って店長にって話があったし。離婚の手続きとか色々面倒だったけど、これで俺は三十三歳バツイチ独身男」
店長はやけに軽快に言ったけれど、笑える内容ではない。すっかり困ってしまって、手に持った名刺をぎゅうと握り締めた。
少しの沈黙。
「崎田さんはもっと喜んでくれるって思ってたんだけど、俺の自惚れだった?」
「え?」
「店長ー! 何やってんですか、帰って来たんですか、わーお久しぶりです! まだカードゲームやってるんですか、好きですねえ、とか言って」
確かに、通常モードのわたしならきっとそんな風に言っていただろう。でも今は違う。あまりのことに動揺している。ずっと好きだった人が会いに来てくれて、昔は座ることができなかった助手席に座り、離婚したと聞かされる。通常モードでいられるはずがない。
「喜んでますよ、店長に会えて」
「ほんとかー? 俺まだ崎田さんの笑顔見てないんだけど」
そうかもしれないけど、サプライズ登場から今まで、笑い話はひとつもない。店長のつらい五年間の話の最中にへらへら笑えるほど楽天家ではない。
「崎田さんの笑顔なんて、もう随分見てないなあ」
「まあ五年ぶりに会いましたし」
「その前から見てないよ。不倫がどうこうって噂が出た頃から」
「そんなこともありましたねぇ……」
今の今まで忘れていたという感じで答えたけれど、忘れているはずがなかった。あの頃から、終わりは始まっていた。つらい数ヶ月だった。
「今までにこにこ楽しそうに働いていた崎田さんがだんだん笑わなくなって。できるだけフォローしようと思ってたのに、笑顔どころか泣き顔を見て終わった」
「俯いてたから泣き顔見てませんよね」
「でも泣いてた」
「泣いてましたけど……」
「この五年、崎田さんを思い出そうとすると、泣き顔と疲れ果てたひどいくまの顔が浮かんでた」
「やめてくださいよ恥ずかしい」