叶わぬ恋ほど忘れ難い
5:誰だって恋をしてしまう
休憩に入ると、いつもの椅子に退勤したはずの店長がいた。わたしを見るなり店長は手招きをする。
「今日は卵焼きありませんよ」
ロッカーからお弁当を取り出して、わたしもいつもの席――長椅子に腰を下ろす。
「いや弁当を狙っているわけじゃなくて、崎田さん、手見せて」
「手ですか?」
何かの暗号だろうか。それとも手相を見てくれるとか? 不思議に思いつつ左の手の平を店長に見せると「逆、逆」と。逆らしい。すぐに手を返して手の甲を見せた。
店長はわたしの手の甲をじっと見て「ふむ」と頷いた。
「何事ですか?」
「いや爪を見ようと思ったんだけど、崎田さん手ぇ小っちゃいね。この手でピアノ弾いてたの?」
「苦労してました。いちオクターブ届かなくて」
「だろうね、この手じゃあ」
店長はくつくつ笑って、差し出したままだったわたしの手を掴む。瞬間、心臓がばくんと跳ねた。初めて触れた店長の手は、温かくて大きくてごつごつしていた。
動揺したのは一瞬。店長がわたしの手を見て「あ、逆むけ」なんて言うから、慌てて手を引っ込めた。
「そういうこと言うなら、二度と手なんか見せません」
逆むけができた手を好きな相手に見られてしまったことが恥ずかしくて堪らない。
元々綺麗な手ではない。指は短いし細くもない。ピアノを習っていた頃は大嫌いだった。いちオクターブも届かないせいで楽譜通りに弾けなくて、何度指を割こうとしたか。
しかも今日は買い取った埃まみれの本をずっと触っていたせいでわたしの手はすっかり荒れてしまっているし。せめて明日なら、逆むけのないすべすべの手を見せられたかもしれないのに……。
「ごめんごめん。もっかい見せてよ」
「嫌ですよ。逆むけのある手なんて女らしくないもの」
「俺は女らしいと思うけどね」
「え?」
「爪も伸びてないし、仕事も家事もしやすそうだ」
「はあ、はい」
「マニキュアも塗ってない」
「わ、わたしだってたまには塗りますよ!」
「何色?」
「ええと、透明のやつ、とか……」
「だと思った」
「う、うすいピンクとかも!」
「はいはい、分かった分かった」
はいも分かったも二回ずつ。嘘だとバレているな。もう少し女らしいところをアピールしたかったけれど、そう思ってすぐ、無駄なことだと気付いた。
いくら家事が得意だと言っても、爪の手入れはしていると言っても、わたしは恋愛の対象には成り得ない。
自嘲気味に笑って俯くと、髪が落ちてきて頬にかかった。それを鬱陶しく思って耳にかけると、店長が「耳」とそれに反応する。
「俺があけたピアス、元気?」
言いながら手を伸ばし、今度はわたしの耳に触れた。
手を触れられたときよりも大きく心臓が跳ね、緊張で思わず、吸い込んだ息を止めた。
「うわあ、赤くなってるよ。大丈夫なのこれ」
「う、あ、は、はい、大丈夫ですよ、消毒してますし、順調に完成しているのではないかと……」
「ならいいけど。もし化膿して大変なことになって、傷害罪で訴えられたらどうしようって。毎日どきどきしてる」
「だから、訴えませんってば」
緊張と動揺を覚られないよう顔を反らして笑ってみせると、店長は「でも法廷で会ってそれが解決したら、崎田さんともっと仲良くなれるかもね」なんてふざけたことを言って、耳を触っていた手を離す。
そしてその手でぽんぽんとわたしの頬を撫で、けたけた笑いながら元の位置に戻っていった。
こんなことがさらっとできる店長は、やっぱり天然のタラシだ。
もしかしたら奥さんも、こういうことをされたのかもしれない。そうして愛を育んだのかもしれない。
こんなのずるい。いくら叶わぬ恋だとしても、こんなことをされたら誰だってときめく。誰だって恋をしてしまう。
わたしは撫でられたばかりの頬を擦って、ばくばくとやかましい心臓をどうにか落ち着けようとした。