恋は人を変えるという(短編集)
「柊さん、起きて。遅刻しますよ」
柊さんの肩を何度か叩くと、彼はううっと唸って身を捩った。
「桐、さむい、布団持ってくな……」
「服着ないで寝ちゃうからですよ。朝ごはん食べます?」
「何時?」
「七時です。あと一時間で出ないと間に合いませんよ」
「もっと早く起こしてくれりゃあいいのに……」
「起こしましたよ、何度も」
柊さんは寝起きが悪い。会話していても三秒後にはまた眠ってしまうから、時間がない時は朝から彼の身体を抱き起こすという重労働を強いられる。この寝起きの悪さで、今までよく一人暮らしをしていたなと感心する。遅刻はしなかったのだろうか。
のそのそと身体を起こして大欠伸をしながら、渡したシャツに袖を通す。それを横目で見ながら朝食の支度を始めた。
ちょっと過保護すぎるかな、と思ったりもする。寝起きは悪いし部屋もすぐ散らかすし自炊もあまりしないらしいけれど、それでも普通に生活していたんだろうし、これでも楽器屋の店長だ。わたしがあまり世話を焼かなくても大丈夫なんだろう。
そう思ってはいても、ついつい世話を焼いてしまうのは、きっとわたしが柊さんにすっかり惚れてしまっているからだろう。
それから数日。学生時代の友人、友喜ちゃんと久しぶりにランチに行ったときのことだった。友喜ちゃんはパスタをフォークでくるくる巻きながら、こんなことを言い出した。
「吉野先輩とはいつから付き合ってるの?」
吉野先輩。知らない名前だった。
「だれ?」
「またまたぁ。見たよ、先週。スーパーで仲良く買い物してるとこ」
吉野先輩が誰なのかは分からないけれど、先週スーパーに買い物に行った人だとすれば一人しかいない。柊さんだ。吉野柊。わたしは初めて柊さんのフルネームを聞いた。
「っていうか友喜ちゃん、柊さんのこと知ってるの?」
聞くと友喜ちゃんは呆れたように笑う。
「わたしたちが二年生のとき、人気だったじゃない」
「え、同じ高校なの?」
「ううん、他校生。でも樋口先輩と安達くんとバンド組んでて、文化祭のとき外部有志でバンド演奏してたんだよ。見てないの?」
「わたしずっとクラスの模擬店にいたから」
「勿体ない。かっこ良かったよ、吉野先輩。歌いながらギター弾いて」
全く知らなかった。でもまあ、今の今までフルネームすら知らなかったのだから、学生時代のことなんて知らなくても当たり前なのだけれど。
「見てたなら声かけてくれれば良かったのに」
「声かけられない雰囲気だったし、わたしも一人じゃなかったし」
「あー、友喜ちゃん、小林くんといたんだ。仲良く食材選んでたんだ。そのあと友喜ちゃんの手料理食べたんだ」
「わたしの話はいいって」
友喜ちゃんは恥ずかしそうに笑いながらパスタを口に運ぶ。柊さんとわたしのことは聞いてきたのに、友喜ちゃんと小林くんのことは秘密らしい。わたしだって、去年運命的な再会を果たして付き合い始めた同級生の話を聞きたいのに。
「で、いつから吉野先輩と付き合ってるの?」
「付き合ってないよ」
友喜ちゃんと小林くんのことを聞き出すのを諦め白状する。
「付き合ってないけど、一緒にスーパー行くくらい仲はいいんだ?」
「うん、まあ、去年の秋に合コンで知り合って。同じアパートに住んでるって知って、一緒にごはん食べたりしてるだけだよ」
「へえ、そんな偶然あるんだねえ」
「友喜ちゃんと小林くんもね」
「だから、わたしの話はいいって」
柊さんとはすでに男女の関係になっている、ということは話さなかった。付き合ってもいないのにやることはやっているなんて。十年来の友人にはなかなか話しづらいことだし、友喜ちゃんだって友人の性事情なんて聞きたくないだろう。世の中には話さなくてもいいことが山ほどある。
じゃあ、柊さんのフルネームや昔のことは、話さなくてもいいことなのだろうか。
考えてみたけれど、よく分からなかった。フルネームや学生時代のことを知らなくても、一緒にいることができる。事実、知り合ってからの数ヶ月、何の問題もなかった。一緒にごはんを食べてテレビを見て雑談をして。眠くなったらベッドに入って服を脱ぐ。もはや日常となった日々を、当たり前のように過ごしている。
でも柊さんは、この日常を、わたしのことを、どう思っているのだろうか。思いがけずフルネームを知ったせいで、急にそんなことが気になり始めてしまった。