恋は人を変えるという(短編集)
その日の夜、一緒に夕飯を食べたあと、並んで座って寛いでいるときに、吉野先輩、と呼んでみた。
「ていうんですね。柊さんの名字」
柊さんは無表情でわたしを見て、こてんと首を傾げる。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ。今日学生時代の友人に聞きました」
「学生時代の友人とやらは俺のこと知ってるんだ」
「柊さんと樋口先輩と安達くんが組んでいたバンドを見たらしいです。文化祭で」
「あ、もしかして桐、樋口たちと同じ高校だったの?」
「そうですよ。安達くんとは同級生です」
「へえ、安達と同い年なんだ」
どうやら柊さんはわたしの年齢すら知らなかったようだ。
「そういや俺も、桐の名字知らないわ」
「鈴村です」
「鈴村さんね、覚えた覚えた」
すぐに忘れてしまいそうなくらい低いテンションでそう言って、柊さんはわたしの頬を撫でる。これは口数が少なくて表情もあまりない柊さんが、キスをする合図。
近付いてくる柊さんの顔を瞬きもしないで見つめていたら、唇が触れる直前で止まって「見てて面白いもんじゃないぞ」と囁く。息が唇にかかってくすぐったい。
「ねえ、柊さん」
「うん?」
「わたしたちの関係って、なんなんでしょうね」
「なに、急に……」
「いや、だってわたしたち、お互いのこと何にも知らないじゃないですか」
突然こんなことを言い出したせいですっかりやる気を無くしたのか、柊さんの無表情が離れていく。そして小さく息を吐いて「それって必要?」と問う。
「必要って……」
「名字や学生時代の話をしなかったことで、この数ヶ月不便なことがあったか?」
「それは……」
「好きな食いもんとか好きな映画とか好きな体位とか、そういう情報だけじゃ一緒にいられないのか?」
「でも一緒にいるなら、絶対に必要のない情報ってわけじゃないと思います」
「じゃあ何を話せばおまえは満足するの?」
「何を話せば満足するとか、何を話さなければ不満とか、そういうことじゃないんです。ただ……」
「なに」
「こんなに毎日一緒にいたのに、わたしは柊さんの名字も誕生日も血液型も、学生時代にバンドを組んでいたことも、ギターを弾けるっていうことすら知らなくて、なんだか寂しいんです」
「別に隠してたわけじゃないし、必要なときが来れば自然と話すだろ」
言いながら柊さんはのそのそと立ち上がって、そのまま背後のベッドに倒れ、枕に顔を埋める。これが腕枕だとしたら営みのお誘いなんだけれど、これは営みなしでもう寝てしまうという合図だ。もう話は強制終了らしい。それならここにいる理由はない。無言のまま電気を消して、柊さんの部屋を後にした。