恋は人を変えるという(短編集)
短いイントロのあと、柊さんは静かに歌い始める。音楽のことはよく分からないけれど、その音色も、声も、優しくって心地良い。指が弦を移動する時に鳴るきりきりという音でさえも、胸に沁み渡る。
初めて出会ったのはいつの日だったっけ、という歌詞で始まったその歌は、気付けばいつもすぐそばに君がいた、と続く。初めて会った合コンのことを思い出してどきっとしたけれど、そういう意味でこの曲を選んだわけではないらしい。男女の物語を綴った歌ではなく、男同士の友情の歌。この人がラブソングなんて作るはずもないか、と頬を緩めながらその姿を見つめ続けた。
所謂これは、わたしのためだけのライブだ。友喜ちゃん曰く当時人気だった「吉野先輩」の復活ライブを、こんなに間近で堪能できるなんて。わたしはなんて贅沢者なんだ。
歌い終えると柊さんはいつもの無表情でわたしを見て、こてんと首を傾げる。
「おまえが知らない俺の人生はこんなもんだけど、分かった?」
わたしはゆっくり頷いて、ありがとうございました、とお礼を言う。ついさっきまで胸の中で渦巻いていた寂しさや後悔、憂鬱やもやもやはすっかり消え去り、新鮮な気分だった。
「でもどうして急にこんなことを?」
聞くと柊さんはギターをケースにしまいながら目を細める。
「桐と話した次の日、うちの店のスタッフに、恋人の誕生日を知っているか聞いた」
「はあ」
「普通は恋人の誕生日くらい祝うらしい」
「はあ、はい……」
「まあ桐の言い分も分かる。言わなきゃ入ってこない情報は山ほどあるしな。誕生日くらい祝ってやりたい。いつだっけ?」
「十一月三日です」
「とっくに過ぎてんな」
「柊さんこそ、先月だったじゃないですか……」
「俺は別に祝われなくても問題ないから」
無性に泣きたくなった、のは、細かい情報は必要ないと言っていた柊さんが、わたしの誕生日を気にしてくれたから。スタッフに非難されたからだとしても、わざわざ戸籍やアルバム、テスト用紙まで集めてきてくれたことが嬉しくて仕方なかったからだ。
そして……。
「恋人って……」
「恋人だろ、おまえは俺の」
「だって告白もしてないし……」
「してなくても、毎日一緒にいてヤって泊まってれば同じことだと思うけど」
「それは……」
「それとも、誕生日やフルネームを知った上で告白しなきゃ、恋人にはなれないか?」
歪んだ顔を見られたくなくて両手で顔を覆うと、柊さんはわたしの肩を抱き寄せて、ふっと息を吐いた。
「お互いのことを話さなくても支障はないとは思うけど、話したら話したで気分が変わるもんだな」
桐がどんな二十六年を過ごしてきたか知りたい。そう続けながら柊さんはわたしの髪に唇を押しつけた。それはここ数ヶ月で初めての行為だった。
「桐、顔見せて」
手首を優しく掴まれ、顔を覆った手を静かに退ける。柊さんは相変わらずの無表情だったけれど、わたしの頬を撫でたから、どうやらキスをせがんでいるらしい。
顔を寄せ、唇が触れる直前「また歌聴かせてください」と言ったら、柊さんは「いいよ」とそれをくっつけながら囁いた。
(了)