恋は人を変えるという(短編集)
次の日の朝、教室に行くと崎田さんが「おはよう、うん、目腫れなくてよかったね」と声をかけてくれた。予鈴ぎりぎりに登校してきた吉野くんも「どうも」と挨拶してくれた。
わたしはまだ心の準備ができていなかったから、ただ頷き、一言「おはよう」と返しただけだった。
午前中いっぱい、心の準備に時間を使って、昼休み。勇気を振り絞りに絞って、ようやく立ち上がった。
向かったのは、矢田さんの席。
矢田さんは早々にお弁当を食べ終え、文庫本に目を落としていたけれど、わたしが机の前に立つと顔を上げ、驚いた表情をした。
「あ、あの、矢田さん……」
「なに?」
その相槌は、あの日聞いたものと同じ。はっきりした声。その声に振り絞った勇気が萎みそうになったけれど、ぐっと拳を握りしめて堪えた。
「あ、あの、ね……わたし、矢田さんに謝らなきゃいけないことがあって……」
「なに?」
「わ、わたし、矢田さんが盗ってないって、し、知ってたんだけど……。ごめんなさい、どうしても、言い出せなくて……。わた、わたしがあのとき、矢田さんじゃないって言えていれば、騒ぎにはならなかっただろうって、思って……。本当に、ごめんなさい……」
どもりながら、時間をかけて、ゆっくりと謝罪をし、矢田さんの言葉を待った。
責められるかもしれない。わたしが黙っていたばかりに大事になったと。許してもらえないかもしれない。そんなことをするやつとは話したくないと。
でも返ってきたのは、予想もしていなかった言葉。
「中谷さんってさ、図書室の本借りまくってるよね」
「え?」
「私もよく借りるんだけど、どの図書カードにも中谷さんの名前あるなって思って。この本にもあった」
言いながら矢田さんは、持っていた文庫本の表紙を見せる。それは今年の春に読んだ本だった。
そしてふっと笑みをこぼしながら「今度面白かった本教えてよ」と言ったのだった。
「え、あ、あの……」
「うち貧乏だから本を買い漁ることはできないんだけど、本は好きだし、せっかく図書室があるんだから、卒業までに面白い本をできるだけ多く読みたいんだよね。だから、教えてくれると嬉しい」
きっと矢田さんは、わたしのことを許してくれたのだ。「いいよ」「許すよ」なんて言葉を使わなくても、解決するということを、わたしは初めて知った。
「よ、良かったら今度、リストとか……作ってくるよ」
言うと矢田さんは「やった」と呟いて、もう一度ふっと笑った。
崎田さんが言っていたことは、これだったんだ。
中身を知れば、近寄り難かったひとも、こんなに優しい。こんなに楽しい。
自分の席に戻るときにふと吉野くんと崎田さんを見ると、ふたりとも穏やかな顔をしていた。