恋は人を変えるという(短編集)
でも振り絞った勇気はまだ使い切っていない。残った勇気で、わたしはもうひとつすべきことがあった。
放課後。部室棟へ行くと、ギター部の部室の前に崎田さんはいなかった。
でも中からはギターの音と、崎田さんのものと思われる歌声が聴こえた。どうやら今日はカラオケの日らしい。
戸の前で深呼吸をしてしばし息を整えてから、こんこん、と。二度ノックをすると、ギターの音と歌声がやんで「はーい」という崎田さんの声。
開けた戸の前に立つわたしを見ると「中谷さん、こんにちは」とやっぱりいつも通りの挨拶をしてくれた。ギターを抱えた吉野くんの「どうも」もいつも通り。
「どうしたの? 歌ってく? どうぞどうぞ、吉野くん、歌本!」
「これ歌本じゃなくて譜面」
ギター部の部室に招き入れられたけれど、今日は歌いに来たわけじゃない。別の目的がある。
「あ、あのね、よ、吉野くん、崎田さん」
若干緊張しつつ声をかけると、ふたりは同時に顔を上げる。
大丈夫。まだ勇気はちゃんと残っている。
「今日はお願いがあって来たの」
「お願い?」
「じ、実は……手芸部の部員が足りなくて、なんというか、廃部寸前で……。生徒総会までにあとふたり、部員を確保しなきゃならないの……。け、兼部でもいいらしいし、手芸ができなくてもいいから……」
緊張で心臓が口から飛び出しそうになったから、一旦下を向いて息を吐き、それを思い切り吸い込んだ。
変わるのだ。今日から。
変われたのだ。矢田さんに話しかけることができたのだ。
結果がどうなろうと、ふたりに伝えておきたいのだ。見せておきたいのだ。中身を見ずに、言うべきことも言えずに、ただ後悔して泣くしかなかったわたしが、ちゃんと自分の考えを口にするところを。
「良かったら、手芸部に入ってもらえないかな。無理にとは言わないし、手芸部としてちゃんと活動してほしいとも言わない。ボタン付けや雑巾作りをするだけでも、何なら籍だけ置いていてもいいから。わたしの代で手芸部を無くしたくない。だから……お願いします」
そして深く、深く、頭を下げた。
戸惑われると思った。困った顔をされると思った。瞬間。
「わたしはいいよー」
考える間もなく、崎田さんの声が聞こえた。
「俺も別にいいよ」
吉野くんの声も。
「吉野くんもボタン付けできたらモテるかもね」
「言っとくけどボタン付けくらいできる」
「そうなの? じゃあなんでこの間わたしにボタン付けさせたの?」
「衣替えだったし」
顔を上げ、いつもと変わりないふたりの様子を見たらほっとして、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「中谷さん、どうしたの、大丈夫!?」
崎田さんが慌ててわたしに駆け寄って、昨日と同じように背中を撫でてくれた。
わたしは大丈夫だということを伝え、改めてふたりに「ありがとう」と言った。
何度も何度も。何度言っても足りないのだ。
この恩を、いつかふたりに返せるだろうか。
わたしは今日、第一歩を踏み出した。十年くらい経ったら、今よりずっとましになっているかもしれない。恩を返せるくらい大人に、なっているかもしれない。