恋は人を変えるという(短編集)
あれだけ悩んでいたのに、話してもらったらもう何も気にならない。むしろ、中谷さんのためにどんどん吉野くんと会ってくれ、という気分だった。
なんてお手軽なんだと苦笑して、その恰好悪さを隠すよう頬を掻いた。
それを察したのか彼女は笑って、空いていた俺の手を握る。
「佐原さん」
「うん?」
「これから先、言いたいことが例えば十個あるとしたら、八個くらいはちゃんと言えるような、そんな関係になれたらいいですね」
「十個じゃなくていいの?」
「だって言いたいこと全部言い合ったら、嫌な気分になるってこともあるかもしれないじゃないですか。だから、八個くらいがちょうどいいんじゃないでしょうか」
それを聞いて、ふと昔を思い出した。
そういえば昔、結婚していた頃、嫁とは喧嘩ばかりだったな。ごく些細なことで揚げ足取り合って、すぐ喧嘩になって。思ったことをすぐ口に出す嫁につられて、俺も毎日粗を探していた。それが嫌になって、途中からはほとんど口を聞かなくなった。
つまりそういうことだったんだな。
言いたいことが十個あったとして、八個は言ったとしても、二個は黙っておく。二個くらいなら黙っていても、それほどストレスには感じないかもしれない。
そうやってバランスを取っていたら、何もかもうまくいくのかもしれない。
それをまさか、結婚に失敗して、三十を過ぎてから気付かされるとは。
それに気付かせてくれる彼女とこうして付き合うことができるなんて。俺は幸せ者だ。
握られていた彼女の手を引いて、胸におさめる。
突然こんなことをしたから、彼女は「わっ」と驚いた声を出したけれど、すぐに俺の胸に手を置き、深く息を吐く。
「わたしは幸せ者ですね。好きな人に抱き締めてもらえるなんて」
それは俺の台詞だ。
毎日毎日、幸せなんだ。
好きな子と付き合えるだけでも嬉しいのに、こうして抱き合っていられるなんて。
彼女の作る料理を食べて、何てことない雑談をして。たまに映画を観たり買い物に行ったり。枕に顔半分を埋めて片手で顔半分を隠すという謎の寝姿も見れるし、朝寝癖をつけて寝ぼけ眼で「おはよーございます」と挨拶する姿も見れる。
例えば彼女が考え事をするときに俺があけた左耳のピアスを触るとか、料理をしているとき無意識に鼻歌を歌い始めるとか、読書に集中していると少し口が開くとか。夜中に目を覚まして俺に布団をかけ直したあと、しばらく顔を見つめて幸せそうにふふって笑うとか。
些細なことを知っていくと、嬉しくなるんだ。
もっともっと、知りたくなるんだ。
だから俺は、離れていた五年間を埋めるように、彼女のことばかり考えている。それこそ、朝から晩まで。